Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.4.8

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その51

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    五一 吉見九郎右衛門の裏切

捕方見合 の次第 荻野磯矢 等の穏便 申出 吉見変心 密訴 吉見変心 の理由 河合郷左 衛門の出 奔 英太郎八 十次郎の 行動 是九郎右 衛門の発 意か

跡部山城守は、堀伊賀守と協議の後、東組与力荻野父子、及び磯矢三人を召 して、大塩陰謀の事を告げ、其の逮捕を命じた。彼等は跡部に向つて、此際 穏便に事を処す可き旨を告げ、此に於て、二月十八日の夜は、その儘に経過 した。   組与力勘左衛門(荻野)並に同人忰荻野四郎、磯矢頼母等は、平常平八   郎文武之門弟に候得共、兼て見届候者に付、右三人へ捕方掛引之儀申含   候処、何も驚入、何も驚入深勘弁之上相答候は、三人共近頃御用多にて、   平八郎方へ不立越候得共、同人兼々門弟共へ教示之趣に引競候得ば、助   次郎(平山)密訴之次第、誠に以不存寄候儀に有之、右は平八郎儀気む   ら同然之生質之上、近来我慢増長し、格別悪意に通合候ものへは、意外   不法之儀共申聞候儀、常々口僻に有之候処、助次郎儀自身之誠心より、   平八郎申聞之趣、実事と心得、卒忽に密訴いたし候儀を、捕方差向、若   哉右様之儀無之節は、却て其儀を申立に致し、如何様之不法可仕出も難   計と致心配候間、十九日巡見差延候はゞ、異変可生儀も無之。勿論平八   郎手元早々相探、聊にても怪敷様子相見候はゞ、三人共身命を抛、尋常   の取計可仕旨申聞候次第、無余儀相聞候付、任其意、右三人は為二引取、   伊賀守へは、穏便之取計方も有之候付、捕方差向之儀、先見合候積遣置   候。〔跡部堀両奉行書取〕 然るに十八日には平山以外、義盟の一人、東組同心吉見九郎右衛門、又々変 心し、十八日夜深更、同人の子英太郎、及び河合郷左衛門の子八十次郎をし て、九郎右衛門の内訴状、及び大塩挙兵の檄文を携へて、跡部山城守に密訴 せしめた。然るに両人は跡部の部下即ち東組には、大塩の党類多きを以て、 寧ろ西町奉行に赴くに若かずとなし、途中より転じて堀伊賀守に赴き訴へた。 最早十八日の夜は深けて、十九日の午前四時頃であつた。堀は先づ両人を留 置し、直ちに其事を跡部に報じた。跡部は既に荻野、磯矢等の意見を容れ、                          くわうわく 穏便に事を処せんとしつゝある刹那、此報に接し、愈よ惶惑した。 吉見は何故に斯く変心したる乎、其の動機は分明でない。恐らくは平山同様 一身の利害を打算して、斯く裏切つたのであらう。若し真に其事が不是と信 じたならば、師弟の縁によりて、先づ大塩を諫むるが当然であらねばならぬ。 元来吉見九郎右衛門は、東組同心にて、跡部が東組の町奉行でありつゝ、西 組の与力、同心を援引し、東組を疎外する形跡あり、彼は平山と共に、中心 不平の一人であつた。而して彼等両人は、首として其の一身の処置を、大塩 に相談した。されば天保七年十月、大塩の秘密の計企を賛同し、河合郷左衛 門と与に、砲車三輌の誂方に奔走した程であつた。然るに彼は何時頃から変 心したの乎、河合郷左衛門は、正月廿七日、三男謹之助を連れて出奔した。                                   謹之助は所謂る白児にて、世人之を厭忌す、されば郷左衛門は愛惜の情に禁 へず、之を負うて世を遁れたと云ふ説がある。〔大塩先生年譜〕又た何か大 塩から密談を受けたる際、其の返答に渋りたる為め、傍に有合せたる棒火矢 にて打擲せられた為めとも云ふ。〔幸田著大塩平八郎〕 而して吉見英太郎は十六歳、河合八十次郎は十八歳の青年にて、旧冬来火薬 の調合やら、檄文の印刷やら、種々の事に手伝ひたる者。然るに英太郎が二 月十三日、大塩の用事にて、外出の際、偶ま父を訪ひ、九郎右衛門より、裏 切の旨を領し、而して帰来八十次郎と相談し。予て父より申含られたる証拠                 せつしゆ 物件となる可きものとて檄文一枚を竊取し、其後の成行を覗うてゐたが、十 六日頃から、同志の出入頻繁となり、形勢頗る緊張し、十八日の晩、兵庫西 出町の柴屋長太夫来訪し、大塩父子と表の間にて面会し、一同は奥座敷にて、 酒宴を催ほしつゝあり。長太夫の帰後、大塩も奥座敷に入り、愈よ明日の首 尾を打ち語りつゝあるを漏れ聞き。此に於て二青年は、出奔したる郷左衛門 を捜索に赴く旨を書き残し、窃取したる檄文を懐中して、吉見九郎右衛門宅 にかけ付けた。 九郎右衛門は、予て認め置きたる密訴状を渡し、斯くて管轄違の西奉行堀伊 賀守に出訴したる次第は、前記の通りだ。是れ或は両青年の発意でなく、吉 見が斯く注意したかも知れない。何となれば同夜は大塩の党与瀬田、小泉が、 東奉行所の当番であつたからだ。兎も角も彼等両青年は、堀の家老中泉撰司 の長屋に於て其の委細を申述べた。

   
 


幸田成友『大塩平八郎 』その117


「近世日本国民史」目次/その50/その52

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ