Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.4.10

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その53

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

第十章 大事勃発前の一悲劇
    五三 大塩の旗揚

大事勃発 大塩出陣 用意 同志漸く 来集 跡部の手 筈 大塩伯父 与五郎逃 亡 卑怯の連 累者

話頭前へ返る。扨も吉見の密訴を受取りたる堀は、之を跡部に通じた。〔参 照 五一〕跡部は大塩一味の瀬田済之助・小泉淵次郎が、普直として、前夜 より東奉行所に在れば、取り敢へず、先づ此の両人を捕へんとした。乃ちそ れ\゛/の準備をなし、家来武道善之助をして、彼等を御用の間に招かしめ た。両人之に赴けば、其の模様が異常だ。扨は大事暴露したかと、身を翻し て脱走せんとしたが、捕吏に取り捲かれ、淵次郎は斬れた。享年十八。済之 助は漸く囲を破り、稲荷社の傍なる塀を越え、乱髪跣足の儘、天満橋を渡り、 洗心洞に赴き、其急を告げた。時に二月十九日の払暁であつた。 大塩は当日晩景、南奉行天満巡見を期として、愈よ事を挙ぐる予定であつた から、捕吏の来り迫るに先んじ、我より進んで垂す可しとて、邸内に集合せ る一味に、直ちに出陣の用意を命じ、又た卯の下刻(午前七時)急使を馳せ て、附近の党類を招き、門を閉ぢて、他人の出入を禁じ、天照皇太神、湯武 両聖王、東照大権現と書したる旗二旒、五七の桐に、二つ引の旗一旒、救民 の二字を書したる四半一旒を、庭前に建て、大砲、砲車を牽出し、溜地埋立 の為に、数日来邸内に宿泊したる人夫、及び今暁新に来集せる人夫、合計七 八十人を召し、大塩自から拳兵の理由方略を示し、信賞必罰の軍令を宣し、 それ\゛/武器を与へ、若しくは輜重用として、長持、葛籠其他の必要品を 担はしめた。 大塩邸には、前夜より同志相会して、謀議既に熟し、酒宴を張りて、大いに 士気を鼓舞してゐた。而して二月十九日は、恰も春期に於ける文宣王(孔子) 釈奠(祭)の当日と云ふを名として、同志もそろ\/来り集まる最中であつ た。斯る場合に瀬田済之助が、東町奉行所より遁れ還りて、暴露の次第を報 じたから、事は予期に齟齬したが、然も毫も狼狽するに至らなかつた。翻つ て、跡部と堀とは、何れも其の組下を召集し、事前に先じ、大塩及び其の一 味を捕縛す可く、それ\゛/支度し、跡部は書を代官池田岩之丞、同根本善 左衛門に飛し、建国寺及び天満橋を守らしめ、又た天満組総年寄今井官之助 等には、消防員を率ゐて、東番所に来る可きを命じた。斯くて宿直の小泉を 斬り、瀬田を取り逃がしたる次第は、前記の通りだ。 而して跡部は、堀を東奉行所に招き、互ひに打ち合せ、大塩平八郎の伯父東 組与力大西与五郎を召し、平八郎に利害を説き切腹せしめ、若し聴かざれば、 差し違ふ可しと命じたが、与五郎は病と称し、養子善之進と与に逃亡した。   猶手当方申談罷在候内、平八郎儀、屋敷内より、頻に火矢打出候由相聞   候間、手配相整候迄之内、如何様とも取鎮候方可然と存、山城守組与力   大西与五郎は、平八郎伯父にて、先達てより病気にて引込罷在候へ共、   打臥居候程の重病にも無之様子に付、与五郎厚縁の故を以、平八郎方へ   差遣、存念為承詰候上、与五郎勘弁を以、尋常の取計為致可申と、同組   其筋の与力与五郎方へ差遣、右之趣為申渡候処、承伏いたし、同人養子   大西善之進差添罷越、山城守差図之通、可取計旨相答置ながら、剛勢に   恐、不能其儀候。〔跡部堀両奉行書取〕          ぬる 斯る場合に、斯る手緩き方法を取りたりとて、とても其の目的を達す可きも のではない。大西も、養子附添、兎も角大塩邸の附近迄は出掛けたが、殺気   みなぎ 已に漲るを望見し、西の宮迄落行いた。然も又た大阪に引き還す時、見咎め られては困まるとて、其刀を海中に投げ込んだ。されば彼は後日遠島、養子 善之進は、中追放を命ぜられた。又た同志の一人、弓同心竹上万太郎は、二 月十三日連判に加り、十六、十七、十八日打続き大塩邸に赴き、十九日には 織砲を携へて駈付ながら、家族を立退せた上、存分の働らきを為す可しと、     ことわ 平八郎に理りて、我家に引還し、母、妻、娘、下女等を立退せながら、弓奉 行上田五兵衛、鈴木次左衛門両名宛に、前非後悔、家名相続の願書を認め、 之を懐中して諸方を立ち廻り、同役吉田邦次郎に出会して之を渡し、播州路 迄逃げ行いた。彼は後に三郷引廻の上、磔刑に処せられた。

   
 


幸田成友『大塩平八郎』その191


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