Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.4.11

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その54

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    五四 宇津木矩之允

一悲劇 矩之允身 柄 矩之允の 学 西国遊学 発途 所志を述 ぶ 宇津木大 阪帰還の 時 所謂る宇 津木書簡 静区伝記 事 宇津木絶 命詞

茲に大塩の旗揚に際して、一の悲劇がある。そは彼が愛重したる門人宇津木 矩之允が、彼を諌めて殺されたる一條だ。 宇津木は彦根井伊家の老職宇津木兵庫の次男にて、通称は矩之允、又は俵二。 彼は越の一向僧鶴州上人の義子となり、好んで書を読み、十七歳にして志を 立て、辞して京都に出て、頼山陽、中島棕陰等に就て学び、更らに陸象山全 集を読み、感憤する所あり、天保二年大塩の門に入り、翌年遂ひに塾頭とな つた。 大塩の古本大学刮目に、門人宇津木靖、松浦誠之、湯川幹訓点とある。其の 筆頭の宇津木靖は彼だ。又た増補孝経彙註の参訂者中に於ても、参訂受業生 としての筆頭には、宇津木靖の名がある。大塩が儒門空虚聚語附録中に『答 彦藩宇津木共甫論心理』、又た『再答宇津木共甫』とあるは、彼だ。彼名は          とういく 靖、字は共甫、又た東c、静区と号した。彼が此の如く大塩門人中に於て、 首席を占めたのは、彼が必らずしも彦根藩老職の次男であるが為めのみでは あるまい。彼は実に大塩から愛重せらる可き資格を具へてゐたのであらう。 斯くて宇津木が洗心洞を辞して、西国遊学の途に上りたるは、天保六年の秋 であつたっ如何に大塩が彼を愛重したるかは、餞別として金十両、国光の刀  ふり 一口を以てしたるを見ても判知る。 宇津木は上途に先ち、江州に赴き、其の父兄に辞別するに際し、鶴州上人亦 た江州別院にあり、訪うて告別したが、当時『別鶴州上人』の長篇は、能く 自己の所志を陳べてゐる。其中の句に曰く、   もと   我原江州弓馬是世家。六歳出為浮屠子。爾来一十有八年。   狂愚成質不自揣。乍把書剣脱袈裟。自謂是以拾朱紫。時清廟堂才彬彬。   下到銭穀不乏人。儒生為言多迂遠。更嫌奔走逐馬塵。因是逐不能得意。   退向丘壑欲養真。又思男児寧在此。千里之行自此始。今年歳已二十七。   落魄未作環堵室。貧賤到底交易疎。惟師於我長如初。 以上は一種の自己告白と云ふも、妨げあるまい。斯くて彼は四国、中国を遍 歴し、長崎に至りて止まり、生徒に教授し、止まる八個月にして、天保七年 冬(大阪市史には七年六月とある)親を省するを以て帰つた。〔大塩中斎先 生年譜〕 大塩旗揚の前夜から、宇津木が其の邸内に在つたことは間違ないが、只だ或 者は二月十七日の黄昏、九州から大阪に立ち還り、先づ大塩の宅に到著した と云ひ、大塩から其企を聞き、之を諌止して聞かれず、遂ひに一死を覚悟し、 二月十八日附にて、一書を認め、私かに之を従者友蔵に携帯せしめ、去らし めたと云うてゐる。されど其の所謂る書簡なるものには、   十七日之夕刻、大坂阿治川へ著船仕儀、四ケ年以前出立之砌、師弟之契   約仕候平八郎、天魔身に入候哉、存外之企有之云々。 とあるが、此れが事実と合はない。若し彼が最初に大塩に入門した年から数 ふれば、天保二年であるから足掛け七年になる。若し彼が大阪を出立した時 から数ふれば、六年の秋であるから、足掛け三年になる。然もそれが師弟の 契約を初めた歳でないことは云ふ迄もない。然も其の書簡の署名には、宇津 木敬治とある。然るに評定所の文書には、敬治、友蔵の名がなく、只だ矩之 允、良之進の名があるのみだ。而して良之進は岡田良之進にして、長崎医師 岡田道玄の子だ。彼の作りたる宇津木静区伝には、左の如く記してゐる。   初め大塩氏の乱を為すや、暁起宣言して曰く、従はざる者は殺すと。穆   (良之進)聞きて而して大いに驚き、急に起て先生(宇津木)の床に至   る。先生従容として曰く、昨大塩氏竊かに余を招きて曰く、方今天下凶   荒、餓途に相ひ望む、而して発するを知らず。余目之を見るに忍びず、             にぎ   因て蔵書を売りて之を周はす。尚ほ万一を救ふに足らず。余将さに豪戸   を屠りて、而して之を救はんとす。卿意如何。余曰く、因らざりき先生                   めぐ   の此言を出す也。夫れ災を救ひ民を恤む、官自ら其人有り、況んや豪戸   を屠りて之を救ふは、是れ民を救ふ所以の者、即ち民を災する所以也。   其れ乱民と為らざる者は幾んど希矣。苛も余が言を之れ聴かずんば、則   ち師弟の義永く絶矣。安んぞ乱民の為に従はん乎。大塩氏余の従はざる                                  まこと   を見て、温言之を謝す、然も余は其の回らす可らざるを知る、今ま事固                          ぼく   に亦た一死を弁ず矣。即ち筆を援りて一書を作り、穆に託して曰く、汝   幸ひに之を郷里に達せよ。〔原漢文〕 此れは何時大阪に還つたと云ふを語らない。而して其の所謂る一書なるもの は、                      ぜいかく   ろうがい   区々一包裏汗血。不数十年当就衰竭。其他蛻殻亦不過奉螻耳。   今日乃得為忠孝之躯体。豈非天下幸甚也歟。満腔熱血。意洒何地。   于忠粛先得我同然者。従容就義難、如平生余気。未必難。但如畳山公。   則実不易。段大尉象笏。大是佳物。李懐光能異石演芬之身首。   竟不能使異其心。宇野某之於明智光秀。六郎連之於平将門。亦可。   人世有詩本粉本之称。予窃取孫忠烈、許忠節為忠本。   畢竟使李確呑憾地下。 の絶命詞だ。惟ふに以上は事実として受取らねばなるまい。

   
 


幸田成友『大塩平八郎』その125
石崎東国『大塩平八郎伝』その79
森繁夫「宇津木静区と九霞楼


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