Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.4.12

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その55

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    五五 宇津木矩之允の死

咬菜秘記 所説 浪華騒擾 記事所記 又同書記 事 宇津木殺 害に一説 真偽何れ か 岡田所言 大塩手づ から殺害 蓋し事実 か 今井克復 所説 是亦一説

尚ほ玉造与力にして、大塩の交友の一人であり、大塩事件には、尤も能く働 らきて恩賞を得たる、坂本鉉之助の咬菜秘記には、左の如く記してゐる。   宇津木兵太といふは、平八郎門人にて、彦根の家老宇津木某の弟也。発   乱以前に、西国より帰坂して、再び平八郎方に来り居りしが、陰謀の事   を竊に語りし所、兵太甚だ不得心にて、種々諌争せしが、兵太も心死を   覚悟にて、供に連れたる僕に云付けて、透間を見て、窃に国へ帰て、此   事を告よとて、夫々仔細を認めたる文を渡し、死を免れざることを書て、   姉の方へ暇乞の文を遣はしたるが、丁度発起の前(翌?)日頃にや、其   僕伏見にて捕はれて、大阪へ引戻しになり、其兵太が文を奉行所へ取上   となりて、其写といふものを、貞(坂本)も一覧せしが、甚だ哀れに気   の毒なる事なり。 とある。又た藤田東湖の浪華騒擾記事には、玉造口御先手与力本多為介が、 斎藤弥九郎に語りたる話として、左の如く記載してゐる。   此度平八郎乱を起し候当朝、門人の内、二心の者、二人自身致殺害候に   付、居合候塾生宇都木某井伊の家老其の子なりしとぞ平八郎の前に進   み、今日の御振舞、先生にも御似合不被成、御狂気は不被成候哉と申聞   候へば、大塩挨拶に、乱心には無之、万氏救の為め、只今より出陣致し   候間、御自分にも味方に付候へとの事に付。宇都木大に驚き、種々諌言   申述候内、右正一郎(大井)進み出、先生如斯人物をば、先づ今日の血   祭に仕らんと申も果さず、宇都木を大袈裟に切下げ、縁側より蹴落し候   由、宇都木は縁より三四尺外に蹴落され候故、鎮火の後、見候へば、腕   のみ焼たる死骸有之候由。 とある。又た同書に、   一 井伊の藩にて、名ある儒者何某、平八郎懇意の処、右之者、去年よ   り西国へ遊歴、当春帰り候得共、大坂乱妨以前より、同人行方相分り不   申候由、是等も不審に候。 とある。而して此れも右為介の話として掲げてゐる。然も此の儒者が宇津木 であることは、東湖も気付かなかつた様だ。 宇津木が大塩邸にて、大塩命令の下に、同門大井正一郎の為めに、殺害せら れたると云ふ説は、他にもある。即ち宇津木が厠を出づる所を、正一郎槍に て突き掛けたれば、宇津木は之を引き外し、縁側に坐し、自から肌を寛げ、 御存分にと、自若として、其槍を受けたと云ふことだ。             ぼく 併し何れかと云へば、岡田穆の話が、或は事実に近きかも知れない。岡田穆 は、即ち岡田良之進〔参照 五四〕にて、彼は長崎医師岡田道玄の子にて、 天保六年宇津木が長崎に遊んだ際、十四歳にして其の門人となり、爾来随従 して、宇津木と共に、天保七年四月以来、大塩の塾に在つた。彼が宇津木か ら絶命詞を授かりたる始末は、既記の通りだ。〔参照 五四〕   此人(宇津木)は痔持で厠へ行くと長い。或時大便に行つて居る時に、   大塩が宇津木の部屋へ這入つて釆て、『宇津木さんはどうしたか』と云   ふから、岡田が、『知らない、何処へ行つたか知らない、大層忙しいや   うですが如何です』と言つたところ、大塩は何も言はずに、戸を閉めて   行つてしまつた。岡田は案じられるから、廊へ行つて、『先生、只今大   塩さんが、貴下を尋ねて来ました。大層な権幕でした』と言つたら『そ   れは吾を殺しに来たのだ、今に斬られるから、其方は早く逃げろ』と言   ふから、庭の塀を乗り越して、逃げやうと思つて庭へ下りて後を振向い   て見ると、今宇津木が、廊から出て手を洗つてゐる所へ、大塩が抜刀を   提げて来て、『宇津木さん』と声を掛け、斬掛けやうとすると、宇津木   が『待て』と言て、手を洗つてから徐々と首を延して斬られた。其時岡   田は、狼狽して居つたら、早く逃げろと言つて叱られた。それから岡田   は、彦根へ行つて、宇津木の母親に逢つて、其事を言つて手紙を渡した。   〔名家談叢〕 以上は岡田と野田笛浦の塾に同学であつた田中従吾軒が、岡田から直聞した る所を語りたるものだ。果して岡田に、宇津木の最後を見届くるだけの度胸 があつた乎、否乎は明かでないが、今日の所では、先づ之を以て事実に近し とせねばなるまい。 又た当時大阪町総年寄の職に在りて、町奉行の指揮の下に、消防鎮撫に働ら きたる今井克復の語る所によれば、   其十九日前夜に、宇津木矩之允と云ふ書生があつた。是れは井伊家の藩   士の部屋住にて、大塩の門に入り、早春より播州辺に行つて居て、其前々   日に帰つて、其話を聞いて、大塩に諌言を致して、発狂人の所為とまで   申ました。大塩は大に憤りましたが、それから便所へ行くと、平八郎は、   大井正一郎と申者に申付けて、殺して仕舞へと云つて、手槍を渡しまし   た。其者もタイしたもので、夫れ程に言つても、先生が聞かねば、我命   の尽る所と云つて、腹をあけひろげて、便所の椽側に座したを、突き殺   したを、私の宅の向ふに往つて居つた造酒業の市郎次の伜、塩谷喜代蔵   と申した書生も、其騒ぎに逃げて帰つて、其事を私に話しました。是れ   は其時見た儘の事であります。〔史談会筆記〕 是れ亦た一説である。特に早春以来播州に赴き、前々日に還つたと云ふこと は、長崎から前夜に還つたと云ふ話よりも、余程辻棲が合ふ様にも思はるゝ。

      ――――――――――――――――――      宇津木殺死に就き儀左衛門申立 右小者友蔵、二月廿二日於大坂町奉行吟味之節、兼而召捕置候庄司儀 左衛門呼出、敬治様子相尋候処、同十八日夜、平八郎父子其外一味徒 党の者共列座の所え敬治罷出、平八郎え種々異見等致候得共、聞入無 之。然る処敬治便所え参候由にて立出候跡にて、平八郎申候は、最早 敬治生けて難帰、誰ぞ打留可申旨聞申候間、大井正一郎刀追取出候を、 平八郎声を懸、太刀打は無覚束、鎗にて突留よと申ければ、心得、鑓 引提、敬治手を洗候処え立寄、正一郎大音にて、宇都木氏一命を先生 え給れと槍を捻り突出候処、敬治承りどつかと座し、両肌くつろげ腹 突出し御存分にといふ間もなく、胸板突通し、直に留めの槍其儘相果 候よし、儀左衛門申立候、敬治時に二十九歳なり。 〔大塩平八郎伝実記〕   ――――――――――――――――――

       
     


    坂本鉉之助「咬菜秘記」その5
    田中従吾軒「大塩平八郎の話
    〔今井克復談話〕その5


    「近世日本国民史」目次/その54/その56

    「大塩の乱関係論文集」目次

    玄関へ