Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.5.9

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その60

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    六〇 両勢の衝突

跡部容易 に出馬せ ず 堀出馬 玉造口与 力の出陣 坂本勢の 出陣 両勢衝突 大塩勢離 散 双方互に 砲撃 坂本の手 並

東奉行跡部山城守は、天神橋を切落し、只だ大塩勢の来襲を遮るばかりにて、 自から進んで之を鎖定するの措置を取らず、只だ庭前に出でゝ、火事場の模 様を眺めて居た。斯くて大砲の音は、頻りに聞え、火は次第に西手へ廻り、 川崎の東照宮へ延燃せんとするらしかつた。此に於て玉造与力の同心支配坂 本鉉之助、平与力本多為助は、両度までも其の出馬を勧めたが、彼は更らに 動く気色もなかつた。然も西町奉行堀伊賀守が、東役所へ来り、城代土井大 炊頭から、出馬の命令を伝へたから、今は是非なく玉造組を随へ場所に向ひ、 京橋組は居残ることとなつた。然るに堀は城代の命を伝へた後、跡部に先つ て東役所を出で、門前に京橋組の並居るを見て、御手前達は京橋組にや、是 より場所へ参る程に、拙者の先へ立ちて参らるべしと云ひ、同心支配広瀬治 左衛門は、其旨を領し、先頭に立ち、島町筋を西へ、御祓筋の辺まで進んだ。 あたか 宛も此時大塩勢は、高麗橋を東へ渡る時で、白旗様のものが見えた。堀は砲 撃を命じた。然も堀の馬は、砲声に驚いて跳廻り、堀は落馬した。同心共は 之を見て、大将敵に撃たれたりと思ひ、即時に散乱し、堀も余儀なく御祓筋 の会所に入りて休息し。治左衛門は京橋口へ退き、同役馬場佐十郎に委曲を 話し、相ひ伴うて東役所の長屋前に到り、茫然として立つてゐた。 〔咬菜秘記〕 扨も玉造口平与力蒲生熊次郎は、跡部の懇望に任せ、馬を馳せ玉造口へ取つ て還し、それ\゛/の手筋を経て、柴田勘兵衛、石川彦兵衛、脇勝太郎、米 倉倬次郎の四平与力其撰に当り、柴田、石川は各自百目玉筒一挺づゝ、脇、 米倉は両人にて三十目玉筒一挺を携へ、東役所へ来た。遠藤但馬守は、彼等 に著込は如何と尋ねたが、彼等は大筒の玉先には、著込は何の役にも立たぬ、 場所へ出でたる以上は、一死を分とすると勇ましく答へたが、然も彼等は遂 ひに一発だも放つ機会を得なかつた。 今や跡部に属する玉造口の援隊は、与力七名、同心三十二名となつた。斯く て跡部は漸く玄関前に見えた。坂本は拙者同心を連れて先頭に参るべく、去 り乍ら道筋不案内に付き、案内を立られたしとの希望を容れ、跡部の纏を先 頭に押立て、案内の士が一人ついた。 内骨屋町筋から、内平野町を西へ向つて進んだ時、大塩勢は平野橋の東詰に 居り、跡部の纏を目当に、木砲を放つた。本多為助や、同心山崎弥四郎は、 応戦せんと坂本を促したが、坂本は暫らく其の模様を見るに、烟の中より木 砲の巣口が明かに見えたから、それと云つて打出すと、最早大塩勢の姿は見 えず、其場には人夫様の者、一人斃れてゐた。敵は平野橋を退いたが、坂本 等は黒烟に阻まれて進み得ず、引還して松屋筋を南へ向ひ、跡部の本部を駈 抜け、思案橋を渡つて瓦屋町を西へ進んだ。此の小衝突の為めに、先頭にあ る可き玉造同心が、後隊なる跡部勢と混淆し、跡部勢も隊伍を乱し、跡部も 亦た堀同様落馬したと云ふ話が、甲子夜話に見えてゐる。 〔幸田著、大塩平八郎〕 大塩勢は平野橋の東詰にて砲撃に会ひ、一党離散して百余人となり、先鋒の 庄司義左衛門は負傷し、平野橋を西へ渡り、南へ折れて淡路町を西下し、奉 行勢並行に進んだが、少し早かつたらしい。坂本等は八百屋町筋にては、敵 の蔭をも見ず、堺筋にて漸く之を認め、烈しく鉄砲を打出し、大塩方からも 大砲三発ばかり放つた。玉造組では坂本、本多、及び同心山崎弥四郎、槽谷 助蔵等だ。坂本は一発打つと、西側の紙屋の戸口にあつた紙荷を小楯にとり、 丸込を仕ながら敵の大砲方を目指してゐると、東側の用水桶の蔭から、坂本 を狙つてゐる者がある。此れは下辻村の猟師金助とて、大塩恩顧の者で、本 多は二度まで坂本に声を掛けたが通じない、金助が丸は坂本の陣笠に中つた。 本多が金助を打つた玉は外れた。坂本は敵の大砲方梅田源左衛門を斃した。   貞が打留たる梅田源左衛門は、西の端にある百目玉筒等の車台に取付、   少づゝ西筋の方へ引かけ居るを、貞は西側紙屋の戸口より、初はよく見   へてありしが、玉込する隙にや、町家が邪魔になつて覘ひが出来ぬ故、   西側を駈進みて梅田の体のよく見える所迄駈出し、直に居敷で打取たり。   其節梅田と顔を見合せたるが、源左衛門は、夫迄貞が覘ひ寄る事を、更   に存ぜず、始て顔を見合て、実に驚き入たる顔色にて、俄に致方もなか   りしや、何の所作も出ぬ内に、即時に打倒したり。‥‥改め見れば、黒   羽二重の紋付に、八丈島の下著を著し、皆紅裏の小袖にて、おちよほか   ら音をして、(衣物の裾が絡らむ)黒羅紗の羽織を著し、股引もせず、   萌黄真田のたすきを掛て是は跡にて聞候、徒党のもの、相印として、巾   広き萌黄真田のたすきを悉掛たりとぞ。素足に草鞋をして、大小も相応   の拵の様にありたり。‥‥彼は彦根の藩より出でたるものゝよし、歳は   廿四五才にて、余程丈夫なる大兵也。〔咬菜秘記〕 兎に角此れにて奉行勢の士気を、一段と鼓舞したものであつたらう。

   
 


坂本鉉之助「咬菜秘記」その12


「近世日本国民史」目次/その59/その61

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