大塩勢遺
棄の品々
堀の後れ
勝ち
大塩勢悉
く散乱
両町奉行
の帰還
双方死傷
烏合の大
塩勢
奉行側の
不始末
武家□□
に怠る
全くの夢
中
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淡路町の衝突にて、大塩勢は引き上げた。路傍には百目玉筒三挺、車台附、
巣口四寸許の木砲二梃、内一梃は車台附、長持二棹、具足櫃二荷、火薬入革
葛籠十余個、鎗三四本、小筒三梃、太鼓一箇、旗二本遺棄してあつた。その
中には平八郎の持鎗もあつたとて、跡部は大満足であつた。此時同心高橋弥
兵衛は、逃後れて近傍の町家に隠れたる安田図書を生捕つた。
堀は内平野町で、大塩勢と接触した後、跡部と出会し、両手に分れて、大塩
勢を挟撃す可く相談し。跡部の馬廻にゐた脇勝太郎、米倉倬次郎、石川彦兵
衛三人、堀の先手となりて、本町橋附近迄押し往つたが、主将の堀は半町位
づつ後に引下り、最初は二十余人も附添うたる鉄砲同心も、瓦町堺筋辺にて
は、僅に十三四人となり、其上始終後れ勝であつた。
されば脇勝太郎は、幾度か催促しても、其の甲斐なきを怒り、高声に罵り辱
しめたが、誰一人返事をなすものも無い。そこで堀に向ひ、暴徒の後を追ふ
のみでは、何の詮もない、寧ろ人数を両手に分け、東西より挟撃したしと云
うたが、人数小勢に付き、そは見合せよとの返答にて。其の内北の辻にて、
お
鉄砲の音を聞いたから、急に駈付けたる道すがら、途中に遺ちてゐたる鎗二
本、粗末の大小一腰を分捕し、淡路町へ来て、両町奉行一手となり、西へ向
つたが、最早大塩勢は一人もゐない。
此に於て本町橋東詰にて両町奉行袂を分ち、米倉・石川は、堀の望に任せ、
西町奉行に赴き、跡部は御城入をなし、坂本鉉之助、本多為助、柴田勘兵衛、
蒲生熊次郎、脇勝太郎、並に同心一統は、番場にて跡部に分れ、東奉行所に
帰つて休息した。
大山鳴動、鼠一疋と云ふが、大塩騒動も、其の騒ぎは仰山であつたが、単に
二回の小衝突にて、潰散した。町奉行側では、一人の負傷者さへも無かつた。
大塩方では討死は梅田源左衛門〔参照 六〇〕一人、其他二人の人足様の者
に過ぎなかつた。跡部の届書には出火に付変死十五人、其中刀疵、鉄砲疵の
者六人とあるも、暴徒に与して戦死したものとは見えない。
大塩勢と云ふは、二十余人に過ぎず。その他は強迫、若しくは弥次馬の徒に
こら
して、所謂る烏合の衆であつたれば、固より奉行側の砲撃に対して、踏み怺
へ可き筈はなかつた。併しそれよりも意外であつたのは、奉行側の不始末で
あつた。
大塩の蜂起は、二月十九日の払暁からで、午前八時頃には火の手が挙つた。
然るに跡部が出馬したのは、午後二時頃であつた。如何に彼が臆病であつた
かは、左記にて分明だ。
拙者共両人(本多為助、坂本鉉之助)申合候は、昨年甲州一揆の節〔参
照 二三〕勤番は、城中にのみ引籠りゐゐ、おめ\/と城下を焼払はせ
候段、是迄は嘲りゐながら、今実地に臨み候ヘば、弥張屋敷内に引籠り、
市中放火を眺め居り候しは、余り言甲斐なき事と憤激いたし、又々山州
(跡部山城守)前へ罷出、出馬の事を勧め候得共、山州余程臆し候様子
にて、元気も無之に付、申述候は、東照宮御社最早危く相見え申候。右
御社の儀は、平常御神体遷座の節さへ、御奉行衆御持前に相成居候処、
かくの如き大変にてさへ、御出馬も無之、御焼失を御見物被成候ては、
乍憚御家にも拘はり可申旨申述候得ば、山州も其節始めて心を取直し候
様子にて、然らば出馬可致との事に相成云々。〔浪華騒擾記〕
又た曰く、
纏持は真先へ進み候役割故、誰あつて持候者無之、折角持たせ候へば、
何時の間にか遁去り候様にて、致方無之折柄、□□詰合居候故、大小を
おはせ
為帯、纏を渡候得ば、此者は無分別の者共ゆゑ、一向懼るゝ気色もなく
かつぎ、真先に進み候に、今其跡へ引続き人数一同、山州も出馬に相成
候処、其時は最早時刻も八つ時過ぎ(午後二時過ぎ)に有之候につき。
武家の奉公、□□にもおとり候ていたらく、且早朝より小田原評定のみ
に時を送り、かくの如く遅刻いたし候次第、万端の様子、是等にて御推
察可被下候。〔同上〕
此れにて万事が推察せらるゝ。
且又百目筒や、三百目筒を持ち出し、持ち廻はり、一発も放たず、然も火縄
筒さへも、覘を定めず、空を撃ち、屋根瓦を打ち砕くなどとの体たらく。乃
ち梅田源左衛門を斃したる坂本鉉之助さへも、
偖此の道筋抔も、一向に覚えず、賊徒と戦しも、何町にてありしや、西
を向てやら、北を向てやら、夫さへろく\/に覚えず。畢竟申さば夢中
同様といふものなり。〔咬菜秘記〕
と自白したる程であれば、其他は固より類推するに余りありだ。
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