Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.5.10

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その61

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    六一 両勢衝突の結果

大塩勢遺 棄の品々 堀の後れ 勝ち 大塩勢悉 く散乱 両町奉行 の帰還 双方死傷 烏合の大 塩勢 奉行側の 不始末 武家□□ に怠る 全くの夢 中

淡路町の衝突にて、大塩勢は引き上げた。路傍には百目玉筒三挺、車台附、 巣口四寸許の木砲二梃、内一梃は車台附、長持二棹、具足櫃二荷、火薬入革 葛籠十余個、鎗三四本、小筒三梃、太鼓一箇、旗二本遺棄してあつた。その 中には平八郎の持鎗もあつたとて、跡部は大満足であつた。此時同心高橋弥 兵衛は、逃後れて近傍の町家に隠れたる安田図書を生捕つた。 堀は内平野町で、大塩勢と接触した後、跡部と出会し、両手に分れて、大塩 勢を挟撃す可く相談し。跡部の馬廻にゐた脇勝太郎、米倉倬次郎、石川彦兵 衛三人、堀の先手となりて、本町橋附近迄押し往つたが、主将の堀は半町位 づつ後に引下り、最初は二十余人も附添うたる鉄砲同心も、瓦町堺筋辺にて は、僅に十三四人となり、其上始終後れ勝であつた。 されば脇勝太郎は、幾度か催促しても、其の甲斐なきを怒り、高声に罵り辱 しめたが、誰一人返事をなすものも無い。そこで堀に向ひ、暴徒の後を追ふ のみでは、何の詮もない、寧ろ人数を両手に分け、東西より挟撃したしと云 うたが、人数小勢に付き、そは見合せよとの返答にて。其の内北の辻にて、                            鉄砲の音を聞いたから、急に駈付けたる道すがら、途中に遺ちてゐたる鎗二 本、粗末の大小一腰を分捕し、淡路町へ来て、両町奉行一手となり、西へ向 つたが、最早大塩勢は一人もゐない。 此に於て本町橋東詰にて両町奉行袂を分ち、米倉・石川は、堀の望に任せ、 西町奉行に赴き、跡部は御城入をなし、坂本鉉之助、本多為助、柴田勘兵衛、 蒲生熊次郎、脇勝太郎、並に同心一統は、番場にて跡部に分れ、東奉行所に 帰つて休息した。 大山鳴動、鼠一疋と云ふが、大塩騒動も、其の騒ぎは仰山であつたが、単に 二回の小衝突にて、潰散した。町奉行側では、一人の負傷者さへも無かつた。 大塩方では討死は梅田源左衛門〔参照 六〇〕一人、其他二人の人足様の者 に過ぎなかつた。跡部の届書には出火に付変死十五人、其中刀疵、鉄砲疵の 者六人とあるも、暴徒に与して戦死したものとは見えない。 大塩勢と云ふは、二十余人に過ぎず。その他は強迫、若しくは弥次馬の徒に                                  こら して、所謂る烏合の衆であつたれば、固より奉行側の砲撃に対して、踏み怺 へ可き筈はなかつた。併しそれよりも意外であつたのは、奉行側の不始末で あつた。 大塩の蜂起は、二月十九日の払暁からで、午前八時頃には火の手が挙つた。 然るに跡部が出馬したのは、午後二時頃であつた。如何に彼が臆病であつた かは、左記にて分明だ。   拙者共両人(本多為助、坂本鉉之助)申合候は、昨年甲州一揆の節〔参   照 二三〕勤番は、城中にのみ引籠りゐゐ、おめ\/と城下を焼払はせ   候段、是迄は嘲りゐながら、今実地に臨み候ヘば、弥張屋敷内に引籠り、   市中放火を眺め居り候しは、余り言甲斐なき事と憤激いたし、又々山州   (跡部山城守)前へ罷出、出馬の事を勧め候得共、山州余程臆し候様子   にて、元気も無之に付、申述候は、東照宮御社最早危く相見え申候。右   御社の儀は、平常御神体遷座の節さへ、御奉行衆御持前に相成居候処、   かくの如き大変にてさへ、御出馬も無之、御焼失を御見物被成候ては、   乍憚御家にも拘はり可申旨申述候得ば、山州も其節始めて心を取直し候   様子にて、然らば出馬可致との事に相成云々。〔浪華騒擾記〕 又た曰く、   纏持は真先へ進み候役割故、誰あつて持候者無之、折角持たせ候へば、   何時の間にか遁去り候様にて、致方無之折柄、□□詰合居候故、大小を   おはせ   為帯、纏を渡候得ば、此者は無分別の者共ゆゑ、一向懼るゝ気色もなく   かつぎ、真先に進み候に、今其跡へ引続き人数一同、山州も出馬に相成   候処、其時は最早時刻も八つ時過ぎ(午後二時過ぎ)に有之候につき。   武家の奉公、□□にもおとり候ていたらく、且早朝より小田原評定のみ   に時を送り、かくの如く遅刻いたし候次第、万端の様子、是等にて御推   察可被下候。〔同上〕 此れにて万事が推察せらるゝ。 且又百目筒や、三百目筒を持ち出し、持ち廻はり、一発も放たず、然も火縄 筒さへも、覘を定めず、空を撃ち、屋根瓦を打ち砕くなどとの体たらく。乃 ち梅田源左衛門を斃したる坂本鉉之助さへも、   偖此の道筋抔も、一向に覚えず、賊徒と戦しも、何町にてありしや、西   を向てやら、北を向てやら、夫さへろく\/に覚えず。畢竟申さば夢中   同様といふものなり。〔咬菜秘記〕 と自白したる程であれば、其他は固より類推するに余りありだ。

   
 


坂本鉉之助「咬菜秘記」その8


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