Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.5.11

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その62

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    六二 幕吏の狼狽

徒党二十 余人 近畿諸大 名出兵 城内守備 口々守備 尼崎岸和 田の兵 郡山藩兵 数 武備廃弛 の極 京都所司 代の狼狽 林大学物 語 江戸城中 評判 露船樺太 侵来の例

大塩の一党は、其の所謂る徒党なる者は、僅かに二十余人に過ぎなかつた。 然るに騒動は実に仰山となり、大阪両奉行は云ふも更らなり、其の城代より して、大阪守備の任に当りたる諸番は勿論、遂ひに近畿の兵を動かすに至つ た。 大塩勢は淡路町にて潰散し、未だ目ぼしき幹部株の者は、一人も捕縛が出来 ない。幕府の諸在番の士を先として、各藩蔵屋敷の者共迄催促に応じて、町 奉行所其他要所々々の警護を勤め、近隣の諸大名は、何れも催促に応じて、 其兵を繰り出した。 城代土井大炊頭は、正午と、暮六つ時とに、二回本丸内を巡視した。目付中                こも\゛/       しばし 川半左衛門・犬塚太郎左衛門は、交々城内を巡視し、又た屡ば城外に出でゝ、 刻々の報告を、城代に与へた。大手門の守備には、城代の手の者、之に当り、 土俵を築き、其上に大砲二門を据ゑ、別に二門を予備とし、門前には柵を結 ひ、竹束を並べ、番頭物頭は、門内に控へ、足軽百人は、具足を著け、銃を 携へて門の西手、北手に屯した。尼崎城主松平遠江守忠栄の一番手は、門の 南手西向に陣した。 京橋口は、定番米倉丹後守未だ著任しなかつたから、山里丸加番土井能登守、 仮に其衆を率ゐ、守備の砲数は、大手門と同じく、門外には岸和田藩主岡部 内膳正長和の一番手、及び高槻城主永井飛騨守直与の兵があつた。玉造口に は遠藤但馬守、柵を結ひ、鉄砲を並べ、青屋口には加番米津伊勢守、雁木阪 には加番小笠原信濃守馬印を立て、中小屋加番井伊右京亮は、遊軍として青    たむろ 屋口に屯し、大番頭菅沼織部正、北條遠江守は本丸に居た。諸勢何れも具足 を著け、抜身の鎗、火縄の鉄砲を携へ、篝火をたき、其勢凄まじかつた。斯 くて尼崎、岸和田の二番手、郡山、淀の兵も追々と繰り出し来つた。 尼崎の一番手は、家老用人目付より、足軽仲間に至る迄三百三十余人、二番 手も略ぼ同数であつた。別に大砲隊あり、夜九つ時に尼崎を発し、一番手同 様、大手へ詰め、後京橋口に移り、更らに跡部山城守の依頼にて、守口、吹 田へ赴いた。岸和田の一番手は、物頭大目付以下二百余人、二番手は四百余 人、之は天王寺へ屯した。 郡山の一番手、二番手、三番手、合して 七百余人は、大阪から距離遠きため、廿日午後、一番手、二番手は大手に進 み、三番手は玉造口に屯することとなつた。又た番場から玉造に陣を移した 高槻藩の兵と、京橋口の淀藩の兵とは、其数分明でない。堺町奉行曲淵甲斐 守は、十九日早朝他の用事もて、大阪に来つたが、此の事件の為め、その儘 城中に滞在した。而して配下の与力同心等が、堺から駆け付けたから、之を 率ゐて西町奉行の役宅へ入つた。伏見奉行加納遠江守は、東町奉行の役宅に 入つた。 此の騒動にて、如何に泰平の時節、武備が廃弛してゐたかゞ証拠立てられた。 大阪に於ける、諸藩蔵屋敷の役人なども、催告に応じて、出兵に取り掛つた が、備付の鉄砲は錆びて用に立たず、又た鉄砲は有つても弾薬はなく。然も 之を買入んとすれば、十九日夜、火薬販売一切禁止の命下り、今は詮方なく、 唯だ弾薬を持たず、鉄砲のみを携へたものさへあつた。斯くて十九、二十両 日は、混雑の際に過ぎ去り、二十一日よりして、各藩何れも兵を収むるに至 つた。 此際特に気の毒なのは、幕吏の狼狽であつた。彼等は日となく夜となく、洶々 として自から安ぜず、風説に驚されて、空ら騒ぎをした。特に滑稽の極は、 二月二十三日、京都所司代松平伊豆守が、大塩の残党丹波に隠ると聞き、亀 岡、淀、郡山の三藩、及び京都町奉行梶野土佐守に出兵を命じた事だ。而し て二十六日に至り、江戸から郡山、姫路、尼崎、篠山、岸和田五藩に出兵を 命じた。此れは遠方にて通信機関が、不充分であつたと云へば、申訳もある が、京都所司代の所作は、何たる態たらくであらう。

      ――――――――――――――――――    江戸に於ける大塩乱の評判 二月廿四日、林大学頭方に参り、とひ計ることのありて夕かた迄居た りしに、大学頭申せしは、大坂町与力の隠居大塩平八郎謀反いたせし 由、彼地の町奉行跡部山城守よりして内々御勘定奉行矢部駿河守方へ 申参りたり。是は山城守同心中山助次郎義、平八郎巧候趣、山城守に 同十七日申聞候に付、同人も覚悟いたし、其段駿河守え申越候旨にて、 同人より大学頭え物語候由也。平八郎は王陽明派の学者にて、謀叛の 念などあるべくもおもはれず。よしあればとて、狂人の事故何程の事 かあるべきなど申候て其日は帰りぬ。同廿六日登城せしに、同日御城 へ大坂よりの飛脚到来いたし、大塩平八郎宅より出火いたし、大筒火 矢等を以て焼立候に付、取鎮方夫々手配有之候旨申参り候由にて御老 中方も退出、七ツ半時過に相成、其節駿河守物語に、早大坂は落城し、 堀伊賀守は京都へ逃参り、跡部山城守は百目筒に当り、首微塵に砕候 由事々敷物語、大造の事に候得共、某存ぜしは平八郎者浪人ものにて、 其上白昼に白焼いたし取懸候にて、最早大事之難成事は明也。当時昇 平之御時故人武事不鍛練、大造に申立候事不足信候間、恐懼の御取計 有之、国体に拘候ては以之外之由等内々水野越前守殿へ申せし旨あり しに、彼人も心附も候はゞ必可申上旨等、具に被仰聞たり。是は文化 のはじめ、魯西亜の賊船カラフトにて乱妨の節、今にも東海より上陸 いたし、陸奥迄切取候様に都下のものは申せし故実に至て、纔の事に て、彼平家の人々鳥の羽音に驚きたるためしもあれば、決して治世肉 食の人のみだりなること申せしを受可からざること也。内々決し居人々 の驚きたる様、取沙汰之様子等、笑ひおもひしに、果て其後の注進に て、二十人余りのもの共騒立、飢民共大勢引連出候得共、跡部山城守 に出合忽に敗亡せしよし分り候也。[川路聖謨著遊芸園随筆]   ――――――――――――――――――

   
 


川路聖謨「遊芸園隨筆(抄)


「近世日本国民史」目次/その61/その63

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