Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.5.12

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その63

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    六三 大塩勢の行衛

大塩勢の 逃去 一行人数 船中に隠 る 更に上陸 焼死を決 す 火中に入 る能はず 済之助等 の死体 大塩父子 逃避径路 美吉屋に 隠る

扨も大塩勢は、淡路町の衝突にて、砲撃せられ、今は到底敵し難きを見て、 一同に解散を命じ、何れも銘々退去したが、其の重立たる面々は、元と来た 路に引返す半町計にして、傍の民家に入り、裏塀を破つて平野町へ出で、避 難者に混じて、東横堀から天神橋の東なる八軒屋へ出た。 時正さに午後四時頃、一行は大塩父子、瀬田済之助、渡辺良左衛門、庄司義 左衛門、白井孝右衛門、橋本忠兵衛、相岡源右衛門、西村利三郎、茨田郡次、 高橋九右衛門、杉山三平、及び瀬田済之助若党周次、作兵衛の十四人であつ た。彼等は河岸に繋いだる小舟を見出し、それに飛び乗り、船頭無宿直吉を 脅し、中流に出で、着込、鎗等を水中に投じ、天満附近を上下してゐた。大 阪では火事の際、船にて荷物を運ぶ故、川中を彷徨しても、誰も怪しむもの                 せま はない。直吉は屡々上陸し呉れよと逼るから、大塩は高橋九右衛門に命じ、 金二両を与へしめ、舟中にてそれ\゛/相談をした。大塩は曰く、拙者は火 中に入りて自殺する覚悟だ。忠兵衛殿には、迷惑ながら此旨をゆう(妾)み ね(格之助妻)に話し、両人に自殺を勤められたしと。斯くて忠兵衛は作兵 衛と共に上陸した。斯くて済之助は若党周次に暇を遣はし、六つ時頃より同 人並に源右衛門、利三郎、郡次、九右衛門、追々に立ち去り、大塩以下残る 者は、一同東横堀の新築地から上陸し、往来の人影なき所に集りて、行先を 相談した。  大塩は飽迄自殺を言ひ張つたが、良左衛門、済之助等言葉を尽して之を諌め、 されば遠国に落ち延ぶべしと漸く納得し、四つ橋まで来り、斯様の姿では、 見咎めらる虞ありとて、各腰にしたる刀を、水中に投込み、脇差計りとなり、 行先の心当もなく、下寺町まで来た。此時大塩は孝右衛門、三平に向ひ、迚 も落延びること覚束なければ、我等父子、済之助は火中に入りて、焼死すべ し。両人は百姓の身、如何様にもして、身を保てと、三平に金五両を渡して 相ひ別れた。此に於て十四人の一行中、残るは大塩父子、済之助、良左衛門、 義左衛門、の五人となつた。 斯くて寺町筋を北或は西の方角に歩み、火事場に接近したが、一同火中に飛                            うしな び込む機会もなく、彼是立廻りゐる内義左衛門は、四人と相逸うた。 [幸田著、大塩平八郎] 以上は評定所の吟味書や、町奉行所に於ける申口で分明であるが、その後の 次第は、聊か不明だ。兎も角も瀬田済之助の縊死体は、廿二日河内高安郡恩 知村の百姓に、同村山中に於て見出された。渡辺良左衛門の切腹したる体は、 河内国志紀郡田井中村に於て発見せられた。 彼等徒党の面々の行衛、若しくは収縛の事情等は、縷述する必要はないが、 茲に記す可き一事は、大塩父子の始末だ。彼等は渡辺良左衛門と相ひ件ひ、 河内より大和に赴く途中に於て、渡辺の疲労歩行に堪へぬから、同人は途中 にて切腹し。大塩父子は、大和に入つたが、とても其の方面に、安全地帯の 見出し難きを認め、道を転じて河内に立戻り、二月二十四日の夜、漸く大阪 油掛町美吉屋五郎兵衛方に著した。 五郎兵衛は、手拭地の仕入職にて、其家は靱下通二丁目紀伊国橋を東へ入つ た所の南側で、東から二軒目に当る。妻、娘、孫、外に下男五人、下女一人、 十人暮しだ。彼は久しく大塩邸に出入し、勝手向の世話をした者である。故 に大塩は其の縁故を頼つて、此処に其の隠匿所を求めたのだ。元来大塩は多 年の経験にて、此筋の事は巧者であるから、高飛びすれば、却つて足がつき、 寧ろ大阪の真中こそ、偵吏の目を免かるゝ便宜があると考へたものであらう。 兎に角一個月余、彼等父子が、此処に在つたことを見れば、大塩の思惑も、 先づ中つたものと云はねばならぬ。

   
 


幸田成友『大塩平八郎』その150


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