Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.5.15

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その66

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    六六 大塩父子の最後

発覚の次 第 土井氏平 野の領 美吉屋下 女の話 陣屋の申 出 五郎兵衛 白状 捕縛に向 ふ 隠所に押 入る 父子発火 自殺 屍骸所置

                            さて 大塩父子隠匿の顕末は、既記の通りだ。[参照 六四、六五]却説其の発覚         いかん 及び自殺の次第は奈何。それには当時の町総年寄である、今井克復の所説が ある。   唯だ大塩父子は、どうしても、其の行衛が分らぬ。各藩、近在は云ふも   更らなり、池や、井戸を改め、深山へも人を入れたが、薩張り分らぬ。   或は薩摩へ落ちたとか、北国に行いたとか、種々の風聞があつたが、三   月二十六日に至りて、漸く其の在家が判明した。   其の手続は、当時大坂城代土井大炊頭は、下総古河の城主であるが、大   坂近在の平野に一万五千石の飛地がある。此処には土井の陣屋があつた。   而して土井大炊頭が、大坂城代となつた際は、平野で一切の会計を引受   け、其所の七名家と云ふ者共にて、其賄を致してゐた。   然るに平野から美吉屋五郎兵衛方へ、一人の下女が奉公してゐたが、三   月の出代りに帰家しての話に、美吉屋で炊く飯が、家内の割合に多く、   これを毎日神様に備へるとて、主人が持つて行く、不思議の事であると。   それが伝はりて、村中寄合の節、話頭に上つた。それを七名家中の末吉   平左衛門と、中瀬九郎兵衛とが聞き付け、平野の土井家陣屋へ報告した。   陣屋から直ちに土井大炊頭へ申し出でた。予ねて大坂城代には、東西の   町与力から、一人宛出入する者があり、用向あれば、其の家来から達す   ることになつてゐる。当時は西町奉行堀伊賀守組与力の内山彦次郎が、   出入者の一人であつたから、彼を呼出して、尋ねたところ。町奉行の方   でも、美吉屋は、従前から大塩へ出入の者であつたから、大塩捜索の手   掛りの為め、他参留を申付けてあることが分つた。他参留とは、事件進   行中の足留のことだ。それで直ちに美吉屋五郎兵衛を竊かに呼出し、下   女の言に拠て、糺問したれば、乍ち白状した。五郎兵衛は、再三断つた   様子であつたが、大塩は種々彼を脅迫し、我は切支丹を行ふから、注進   でもする様な事があれば、必らず知ると云ふことで、五郎兵衛も、従前   からの義理もあれば、断切れず、匿つて置いたので、それが現はれたの   は、三月廿六日の事である。   此の如く町奉行の方では知れず、却つて城代の方から前述の手続で知れ   た。   却説夫から捕縛の手続を定め、土井家からも、捕手を出すこととなつた。   而して内山彦次郎が、主となりて、二十六日の夜、其の近辺を囲む手配   りをした。当時若し火を掛くる様な事があつてはとの用心に、私共(今   井克復)は予ねて町火消を委任されてゐたから、堀伊賀守から、密かに   私どもに同僚三人、今井官之助(私は其頃官之助と申した)比田小伝次、   永瀬七三郎を招き、其の内意を承り、二十六日の夜、美吉屋宅の近傍に、   消防の道具を持寄り待つてゐた。二十七日の朝、内山彦次郎が、先立つ   て、土井家の人数、其他捕方同心手先の者共、凡そ五十人程、美吉屋へ   向ふたり。直ぐ踏み込んで、捕ゆれば捕へられぬではなかつたが、狭き   六ケしき路次で、奥は中二階の六畳敷位の所で、五郎兵衛妻に案内をさ   せ行くところが、二人と並んで這入れぬから、其戸を叩き、五郎兵衛妻   から、捕手の来たことを報じたや否や、大塩は其の居所の雨戸を明け、   彦次郎と向ひ合つた。すると短刀を投げつけたが中らなかつた。夫れか   ら直ぐに雨戸を締めた。其際大勢押入ふとする所、予ねて用意して有つ   たものと見へ、何だか機械仕掛の様に、直ぐと火が出て、寄り附けない。   其時私共は、出張してゐる手先の者、数人消防に取り掛つた。火は家内   に満ちて、暫く手間取つたが、漸くそれを消し止めて、上に焼け抜けた   丈けであつたから、下の方には焼木が折重つてゐた所を、段々取除けて   見ると、焼木の縦横になつてゐる下に両人共居りて、刀で喉を貫き、平   八郎は俯伏しになつてゐた。格之助は胸を貫れてゐた。刀もなく、自殺   の体ではなく、平八郎にでも殺されたかと思はれた。其の死骸を、消防   頭の吉兵衛と云ふ者が取り出して、私共の面前に持ち出したから、大勢   立会て改めたが、其の死骸を、牢役所へ送る可く、五郎兵衛の向なる三   宅なる医者に、私が赴き、駕籠二挺出させ、それにて送り届けた。死骸                              あたか   は首が脹れ上て、肩と一様になり、頭の無い人かと思はれ、宛も蛙の様   であつた。上に引揚げて見た時には、脹も引いて、面体は鮮かに分つて   ゐた。彦次郎は、大塩と同僚であつたから、其の投出した脇差には、見   覚へがあつた。格之助は、反つ歯であつたが、その死骸は歯をむき出し   てゐた。[史談会速記録] 以上当時其場に立ち合ひたる一人、今井克復の談話だ。尚ほ此の始末に付て は、他に語る可きものがある。

   
 


〔今井克復談話〕その6


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