Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.5.22

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その73

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    七三 直接行動に関する諸説

真の動機 如何 江戸に出 仕せんと す 其家絶え 高井を怨 む 退官の因 由 一旦緩急 奉公を欲 す 江戸に赴 かんとす るの念 只癇癪玉 の破裂か

抑も大塩は何故に清平の天地、然も日本大都の一たる大阪の真中に於て、暴 動を起した乎。檄文の主旨では、悪吏と奸商とを退治する為めに、一命を捨 てゝ、此事を思ひ立つたと云ふに帰著する。果してそれ丈けであつた乎。果 してそれが真の動機であつた乎。 大塩と時代を同じくし―稍や後れたれども―たる、大阪町総年寄今井克復の 所説によれば、大塩は『江戸に出て、一廉の役人に取用ゐられたいと云ふこ とを懇願した』彼の長官東町奉行高井山城守も、其意を諒としたが。高井は 其の職を去らんとするに臨み、大塩に向つて、   江戸に出る心あらば、与力は一旦退かずば、与力のまゝにては昇進は出   来かぬれば、せめては江戸にて御家人の株に入、身分を替たる上でなけ   ればならぬ。 と諭した。即ち此れが大塩の隠居したる理由だ。 然るに大塩の頼みとしたる高井は、西丸留守居の閑職に貶せられて、とても 彼の望を達す可き手段もなかつた。大塩は再度迄も江戸に赴いたが、高井は 最初に、とても出来ぬと申切り、再度の出府には、其の面会さへ謝絶した。 此に於て大塩は勢ひ高井を怨まざるを得なかつた。此れが即ち彼が騒動を起 したる、第一の動機である。〔史談会速記録〕 以上は今井所説の要旨にして、   高井の説で隠居した大塩は、何分江戸表で出世したいと云ふのが一心で、   高井が私が転役すれば、引く(退職)が宜からうと云ふことを注意した   もの故、引いて隠居したのである。〔同上〕 と断言してゐる。此れでは大塩自己の所説と、全く主客顛倒してゐる。大塩 は高井の去らんとするを見て、彼は長官と其の進退を倶にする決心もて、辞 職したと云うてゐる。〔参照、三四〕否な大塩は、それに一歩を進めて、   先宿願之通、三年已前(天保元年)御暇乞退身仕候。山城殿(高井)参   府に付、思付候事には無之、邪宗門吟味之節、京都同列之者ども、兼て   談候事有之義は難取失、士之一言泰山磐石よりも重く、前以御暇内願罷   在候義も、及御聞候通にて、首尾よく退身仕候。   〔大塩の荻野四郎助に与へたる書翰の一節〕 と云うてゐる。即ち彼は高井の転任説の出で来る以前、豊田貢等一件審理の 際に、既に京都の与力にも、其事を告げ置いたと云うてゐる。されば今井の 所説は、全く此れと矛盾してゐる。併し大塩自身も決して世捨人として、自 から安心したものではなかつた。   且無之事には候得共、天下御大切之是と申事之節者、隠者ながらも、急   度砕身粉骨可致積、夫故事は不意と申義にて、平生世間の事者、万端可   預様無之事。〔同上〕 と云うてゐる。乃ち平生は世事を謝絶するも、一旦緩急あらば、何時でも身 を挺して奉公すると云ふ訳合だ。恐らくは此れが大塩の本音であらう。 彼が如き気象の人として、三十八歳にして、全く世捨人となり得可き筈はな                         しま い。彼が爾来全く功名の念を絶ちたる乎、否乎、そは揣摩の限りでないが。 仮りに江戸から彼を招き、相応の役目を申付けたらんには、彼は之を辞す可 かりし乎、恐らくは然らずであらう。否な彼は吾道を行ふの時節到来したと して、必らず欣然之に赴いたであつたらう。 そは天保六年、老中大久保忠真新政の砌り、彼を拳用せんとの内議ありたる 際―若しくは斯く彼に諒解せられたる際―の彼の態度を見ても、察するに余 りありだ。果して然らば彼は何故に事を起した乎。彼を尤も能く知りたる矢 部駿河守は、是れ決して久しく巧みたる謀反ではない。只だ其の意見の行は れざるを見て、憤激の余此に出でたるものと云ふ。即ち大塩の癇癪玉が、爆 裂したと云うてゐる。

   
 


相蘇一弘「天保六年、大塩平八郎の「江戸召命」について」その2


「近世日本国民史」目次/その72/その74

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