Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.5.23

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その74

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    七四 又た一説

学迷雑録 稾の一説 大塩等の 官金使ひ 込み 全くの妄 説 癇癪の爆 発 過度の神 経質 狂気じみ たる言動 大塩の容 貌 大主我者

古賀庵の『学迷雑録稾』には、或人の説として、左の如く語りてゐる。   一士人曰く、浪華城に闕所金あり、皆な伏罪者の金を没入する也。其金   天満与力之を掌り、私かに使用するを得る。幕朝即位の年にあらざれば、   則ち官点検せず。期に先んじて還償すれば、則ち罪譴を免る。而して之                                   を散ずる過多、往々償ふ能はず。天明の季、既に此を以て重典にゥかるゝ   者あり。今茲に幕朝継襲近きに在り、後素(大塩)及び其の党羽の輩、        かし   乾没無数、家貲を傾くるも、以て其の百一に充すに足らず。窮民を賑   はすの名に託して、多く豪賈の金を出さしめて、以て之に供せんと欲   す。又た願の如くなる能はず。自から必らず戮に罹るを知る、故に寧                ひき  げうかう   ろ死を冒して乱を作し、以て非冀を僥倖とす。而して甞て与に私を行   ふ者、之に従ふ帰するが如しと。云ふ所の如くんば、則ち後素(大塩)   半文銭にも中らず、而して其実果して然る乎、否乎を知らざる也。   〔原漢文〕 此れは然る乎、否乎などと疑問とする迄もなく、大塩其人の従来の経歴か ら見て、到底疑問とする程の価値なき全く妄説だ、誣言だ。彼は他の臓罪 を嫉視し、之を摘抉するを、其の能事の一とした。然も彼自から臓吏たら                               あらゆ んが如きは、到底想像だにつく話でない。死人に口なし。大塩には凡有る 悪名を負はしむるを以て、当代に迎合したる徒輩少くなかつた。乃ち上記 の如きも、其の標本の一だ。 今日に於て得らる可き凡有る資料によりて考察するに、大塩の直接行動は、                   かふたう 全く彼の癇癪の爆発と見るを以て、尤も恰当とする。彼は本来癇癪持であ つた。此の一点に就ては、万口一致する所で、誰も然らずと云ふものはな い。彼の門人吉見は、『長幼の差別なく、大杖にて打擲す』と云ひ。矢部 は『彼が金頭と云ふ魚を、頭からバリ\/噛み喫した』と云ひ。坂本鉉之 助は、『人之噂にては、殊之外短慮暴怒も有しやうに申候へども』と理り て、自身の交際の節は、それ程でもなかつたと云うてゐる。それにしても その評判は、隠れもなき事であつた。 彼が斯く癇癪持であつたことも、彼の身体にも関係ある様だ。心身相ひ関 することは、如何なる聖賢と雖も、免れ難き所で、特に大塩は肺病患者で、 過度なる神経質であつたらしい。彼は文政九年―三十四歳、前年からの肺 患の為めに、辞職を申し出でたことがあつた。而して天保元年辞職後も、 彼の神経質は、寧ろ加ふることあるも、減ずること無かつた。彼が天保五 年二月、伊勢山田に於て、古本大学の致知格物の本義を講じ、書院に休息                              には するや、少年が女楽を弄して其門を過ぎんとしたから、彼自から遽かに起 て、簾を下したと云ふ。彼の神経は能く働いた。されば今井克復は、   自分(大塩)は大阪で働いた様に、江戸でやらう、名を揚げたいと云   ふのが病で、夫れを用ひられぬので、クヨ\/思ふて発狂した事であ   る。〔史談会速記録〕 と云ひ、又た、   何でも勝気の強い男であるから、癇の力でやり遂たので、一通りの者   ではござりませぬ。 と云ひ。更らに彼が富士登山の際、其の裾野にて、此処が陣屋を措くに適 当の場所だなどと、恰も狂気じみたる言動をしたと云うてゐる。何れにし ても彼が精神的作用の、尋常一様でなかつたことは、争はれぬ事実であら う。 それを証明するには、彼の容貌が最も好き材料だ。大塩遁走後、其筋から 廻はしたる人相書に曰く、                          大塩平八郎   年齢四十五歳、顔面細く長く、色白く、目之張強き方。眉毛細く濃き   方。額開き、月代薄き方。鼻常体、耳常体、其節之者、鍬形之兜、黒   陣羽織著す。 とある。而して今井克復の所説によれば、   カツプクは、小い男で、頭開きて、顔色青い男で、額に青い筋があつ   て、癇癪が現はれて居る。目は垂れて頬の下がツボんで居る男であり   ました。 とある。乃ち此の容貌が、彼の性格の目録であり、又た其の性格が、彼の 直接行動の目録である。要するに彼は大なる主我者であつたが、それを彼 の良知良能と心得、其の所信に向て、真一文字に邁進したのだ。固より前 後左右の考慮などは、深く廻らしたものとは思はれない。

   
 


「御触」(乱発生後)その2
〔今井克復談話〕その9


「近世日本国民史」目次/その73/その75

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ