文政十二年切支丹始末 その2 |
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豊 田 貢 貢 の 素 性 |
豊田貢此女は元来越前の産れなり。親は代々禰宜なりしが、至つて貧窮なるが故に、親子連立京都へ引越し、親兄などは、祓読みて市中を廻り、又所々の神事等に雇はれて、愍れなる世を渡るといふ。同人事は容も相応に生れ付きしが、或る公家侍の妻となり、女子一人儲けしが、此男も兎角に良からぬ業もなして、身分不相応なる金を遣ひ、大坂北新地吉田屋といへる置屋へ妻を遊女に売りしとなり。 貢此節の名はたかといふ。 然るに同所一丁目・二丁目を兼帯して、町年寄を勤むる百文字屋五郎右衛門といへる者、金子二十両の立金して之を受出し妻とせしが、至つて気性高く、常に机に向ひ手習・学問をなし、其余の慰みには琴・三味線を弄び、又楊枝差・紙入等の小細工をなし、一寸隣家迄出るにも、首に帽子を著け、下男に看板を著せ、脇差を差させ、町人不相応のなりにて出歩行き、己れ遊女に売られ、身受けして貰ひしを悦べる様は少しもなく、我はかかる町人の妻となるべき者にあらずとて、召使の者はいふに及ばず、主へも口を返しぬるにぞ、 五郎右衛門も、何かと工事(たくむこと)等なして、後には入牢迄せし程の曲者なれども、一向に手に余りしといふ。 折り節蜆川に架れる縁橋 *1 の橋普請ありしかば、われに書せてよとて是を書きしといふ。其後五郎右衛門も大いにもてあまし、不縁せしかば、新地裏町に家を借りて寺子屋を始めしかど、之も思はしからずとて、京都へ登りしとなり。
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軍 記 に 奇 術 を 学 ぶ |
斯くて後は、独身にて明神下し、何明神などぞ、狐を祭れるなり。此類京・摂の間に専多し。 をなして渡世をなせしが、或る時軍記に出合ひ、彼が奇術ある事を聞いて、頻りに之を懇望せしに、軍記云へるには、 「是を習ふには至つて行法もむづかしく、其上其方の身の為にもなり難し」とて、断りぬるを、 「仮令如何なる浅ましき死をなす共苦しからねば、教へ給はれ」とて、強て頼みぬる故、 「然らば先其法を行ひて見すべし。此方より詞を掛る迄目を閉ぢて開く事なく、又如何なる怪しき事ありとも、別して驚くべからず」と約定をなし、「最早目を開きても苦しからず」といへるにぞ、目を明けぬれば、ねたし憎しと常々思ひ詰めて憤りぬる男に見かへられし女の、眼前に笑ひつゝ立ちぬる故、飛懸つて之にむしやぶり付きしに、姿は消えて空を掴みぬ。約に違ひうろたへし事を恥づれども、斯かる奇妙の術なれば、弥々執心に思ひ、夫より不動心とて種々の行ひをなして、其術を伝はりしといふ。 本尊となして彼等が祭れるは、如何なる者とも聞かざりしが、外に女の髪をさばき、赤子を逆に引提げし像あり。之は宗門に入る時、手の指悉く竪に切裂き血を出し、画像に注ぎかけ、他言する事なく、一命を失ふ共誓に背くまじとの、誓約に用ふる神なりといひしとぞ。
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