Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.12.14

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「浮世の有様 巻之一」

◇禁転載◇

文政十二年切支丹始末 その3

 





京都にて、富家の小児両眼潰れ、瞳子も白く陥入りしが、これ迄富家の事なれば、黄金を惜まずして、種々に治療に手を尽せしか共、少しも其験なくして、盲人となりぬるを、或る人「を頼み祈祷せよ」とて、彼が不思議の術ある事を述ぶるにぞ、詮なき事とは思ひながらも、同人を頼み、祈祷の事言入れしに、

「先づ神に伺ひて後返事すべし」とて、之を伺ひしに、其効ある由なれば、夫よりして、其小児の肌に付けし衣服一つ取寄せ、

「是よりして一七日の祈祷を始むべし、六日目の七つ頃に至らば、共目明らかになるべべし」といひしかとも、人に勧められて祈祷をば頼みぬれども、斯かる不思議あらんとは更に思ふ事なかりしにぞ、

頓と打忘れて暮しぬるに、言ひしに違はず、六日目の七つ頃に、両眼ぱちりといへる音して、天井へ向つて火の飛出でし如く覚え、其音母親の耳へも入りしが、何事やらんとて、何の心も付かざりしに、其子、

「障子が見える、母親が分る」などいへるに、大に驚き、始めて貢を頼んで祈祷せし事を思ひ出で、信心肝を貫くが如く、直に其旨告来り、厚く礼を述べ、富家の事なれぱ、数十金の謝物を与へしに、之を辞して少も受けざりしが、此者夫よりわれを大切にいたしくれぬ。

「斯く捕はれになりし事を聞きなば、嘸悲むべし」と、いひしとて、東御奉行所御用人高島雲溟に語られしとなり。

此者貢御仕置の節、母子共永牢、家は欠所と成、番頭・手代両人、日本の内にて京都の岡崎、其外ニ箇所ならでは、居る事なり難く、其夜(余?)は悉く御構なされ、何れなりとも右三箇所の内落著きし所より、其由申出づべしとの仰渡されなりしといふ。

大坂米屋町難波橋筋西へ入所にて、町の下役をなす市物屋喜八といへるは、京都宮川町の者にて、相応に暮し、借家等も持つてありしが、近年不仕合せにて、斯かる様になり果てぬ。二十年以前迄は、同人借家を借りて、明神を祭り、吉田家へ取入り、緋袴著用し、常の往来にも朱の長柄を差懸けさせ、至つて気高き女なりしが、其節迄は難渋にて、一年も家賃を断つてくれざる事あり。又或る時は金儲けする事ありと見えて、一時に滞りを払ふ上に、一箇年も先の家賃をも入れ置きぬ。其節よりも、怪しき事なりと人々噂せしが、其後盛に用ひられて、八坂へ移りしといふ。

 
 








此の如く繁昌して、世間にては見通しと呼ばるゝ様になりぬるにぞ、

愈々高振りて、常に乗輿して往来し、人をなづけんが為めに、祈祷をなせども、謝物多くは受くる事なく、金銀を撒き散らして、貧困の者共を救ふ。其金何れより出るといふに、謝物表向は受けざれども、一度彼が祈祷を受けし者は、頻りに金銀やりたくなりて、持行き与ふとなり。

又或富家の隠居、大病にて治し難きを、彼が祈祷にて助かりしかば、大に悦びぬ。夫よりして此人と至つて親しく交りて、之に妾を勧め、其女に疾と申含め、金銀入用の節は、妾より金をくり出させ、撒散しぬる事なりとぞ。其外金銀取込の手段あり、川崎さのが所に記す。 東洞院通に中村屋といへる醤油屋有り。これが分家に中村屋何某といふ者、松原通にて呉服屋やとやらん 質屋とやらんともきけり。 を家業とす。此者と心易きにぞ、此者の金を借りぬ。切支丹の伝書引当てに遣せしを密にて学びしなど、種々の取沙汰こなりし。 是も密に其邪法学びし由なれども、主は三四年前死去せし故忰、十四五なる忰 *1 召捕へられ入獄せしが、御仕置の日首斬られしとも、又永牢になりしともいふ。家は欠所、手代共迄夫々御仕置ありしといふ。

    以上、浄光寺梵妻・大和屋林蔵等に聞けるまゝを記す。
 
 





    大和屋利兵衛が咄には、「先年中村屋方へ大勢客を為せしが、酒出せし上にて、何も格別の馳走とてもなければ、只今より天の川の鯉を取寄せ、吸物になして奉らん」といひて、手桶に水を入れ、灯燈をともし、之を桶に結付けて、屋根の上に上げしに、見る間に空へ登り雲隠れせしが、程なく下りて、元の屋根に止りぬるにぞ、桶を下してみるところ、大なる鯉二尾有。是を吸物にして出し、饗応せしかば、何れも大に興に入りし事などありし由也、とて語りぬ。
 




 
貢の



又京都にて、或る家の息子へ、斯かる姦悪無道のなれども、恋慕して、我とは年二十余も違ひぬれば、表向は養子にせんとて、色情を隠し、心易き人を頼みて言込みしが、此者一人息子なる故、其親之を許さゞりしかば、此息子へ難病を煩はせ、面部一面悪痕を生じ、あさましき姿となしぬ。

斯かる事とは夢にも知らざる事なれば、両親も大に惑ひ患ひぬる折柄、「祈祷してやらん」と言へるにぞ、医師も断る程の事にて途方にくれしかば、之を頼みぬるに、己が家へ取寄せ祈祷せしに、一両日にして少しく其験顕はれしかば、二親大に悦びぬるにぞ、再び養子の事いひ出でて、「此者難病にて助り難き事なるを、祈祷して助けやる事なれば、平愈せし上は我に得させよ」といへるにぞ、「今は命の親なり、助かりさへする事ならば、御心に任せ申べし」とて諾ひぬ。程なく悪痕治して元の如くなりしかば、約定なりとて之を養子に引取り、名を嘉門といひしが、之より僅三十日計り過ぎて、と共に召捕られ入牢す。

此者が斯かる邪法なる事は露程も知らぬ由なれども、親子となりしに逃れ難く、御仕置の日討首となりしとも、又永牢となりしともいふ。其慥なるを聞かず。以上世間にても専ら風説ああり、大和屋林蔵・加島屋勝助等に聞ける侭を記す。

 


管理人註
*1 「三一版」では「槙治郎」の名がはいる。


「大塩の乱」 その2その4
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