Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.12.18

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「浮世の有様 巻之一」

◇禁転載◇

文政十二年切支丹始末 その6

 




 藤田顕蔵

〔原註〕杏庵顕蔵が奸智に惑はされ死後不明の恥をさらし先祖の祭をも断ちぬるに至る

阿波国の産にして、堂島浜大江橋少し西へ入処藤田杏庵 *1 といへる医の門人なりしが、才器ある者なりとて、杏庵実子竝に甥などありながら、之を捨ゝて、顕蔵を養子とす。

杏庵は相応に用ひられ、余程積財せし者なるが、顕蔵が世となりては、親父の如く用ひられざる故、医者の業にて其町の年寄役を勤む。 此浜の町人総べて相場を業とする事故何れも商せはしき故なり。 所柄の事故、終には米の相場をなし、翫物を好みて金銀を費し、米商ひにて大に損をなし、後には居宅をも質物に入れしに、其身年寄役を勤る事故、又之を外にて二重家質に入れ、其余金銀を人に借りて、不埒の事を為事など数多しといふ。

始め入れし家質は町内の内なる故、二重に入れし事相顕れ、相手方より公訴に及びしかば、医業と云、町年寄をも勤むる身にて、不埒の致方なりとて、三郷御払ひになりしかば、 又内済になりしかども、不埒者故町内より追立しともいふ。

夫より住吉へ引越しゝが、切支丹の書物所持にて、川崎の佐野へ売り与へしといふ。 以上浄光寺竝に世間にての噂を聞きて記す。又絹屋七兵衛が咄には、平岡の社人と心易きにぞ、是に切支丹の書物を借しぬるに、此社人隣村の後家と姦通せしが、何かと不良の事ありて召取へられ、其家立付となりしに、右書物ありし故、御糺ありて、藤田所持明白にて、召捕へられしといふ。

其事顕れて召捕へられ、入牢の所牢死故、塩漬となし同日御仕置となる。

 






八十になれる養母・妻子、 男子にて八歳といふ これ迄は所預けなりしが御仕置の日召出され、老母は宿下げにて、やはり其所へ御預となり、妻子は直に永牢となるといふ。又妻は打首、子は永牢といふ。 阿州の顕蔵が兄といへるも、呼登せとなりて、是も永牢の由。総べて切支丹行ひし者共の三族、御絶(たや)しになる事なりとぞ。






 






堂島難波屋太兵衛とて相応の町人の忰、顕蔵が妻の妹の養子となりしが、此男両親の心に叶はずとて、間なく離縁せられし故、里へ引き出で外宅してありしに、藤田が娘之を恋ひ、家を抜け出でて夫婦となりしかば、藤田顕蔵 大きに腹立ち、之を義絶すといふ。此の如きなれとも、娘の人別、やはり藤田が方に残りあるにぞ、其縁遁れ難く、両人共召捕へられ、永牢となりしとなり。

人別の残り居し計りにて、斯かる憂身になれる事、不便なる事なりなど、世間にて噂する者もあれ共、六年計以前の事なりしが、此者堀江遊所にて、芸妓など大勢呼びて遊びしが、酒興に乗じ、我面白き手づまして見せんとて、何か少しく所作をなして後、一やうに三絃をひきて謡ひぬる芸子共に云へるは、「其方たちのゆまきを今取りしが、之をも知らで謡ひぬる可笑しさよ」といへるにぞ、更に之を諾(うべな)ふ者なかりしかば、「如何に言ふ共言へる計りにては知れ難し、銘々ゆぐを改め見よ」といへるにぞ、

何れもこれを改るに、更になければ大に驚き、いつの間に取られし事とも知らず、「早く返し給はれ」といへるにぞ、「然らば出しやるべし」とて、己が袖の内より引出し、夫々返しやりしかば、何れも大に驚きぬ。

其節専ら此噂ありしが、道修町吉川屋吉兵衛といへる者、「先日堀江にて難太の息子の藤田の養子となりし者は、至つて妙なる手妻をなし、先日堀江にてかかる事有りし」とて、其事を予に咄しぬる事ありしが、之を思へば、彼等も此邪法を学びたるなるべし。かほどに評判の高かりし事なれば、この事など御聞きに達せざる事あるべからず。然らば自業自得といふべき事なり。

 
 



 円照寺 西本願寺末寺新鞆油掛町*2

藤田が頼寺也。住持退院、組合の寺々閉門迫塞にて、後は本山よりの計らひに任すとの仰渡されの由。他宗と違ひ、妻子これ有る事なれ共、当人計りにて、妻子は苦しかるまじと心得しにや、其儘にて退院せしに、本山より妻子をも退かしむ。住持は折節大病に臥して手足叶はざりしかば、戸板に載せて舁出せしとぞ。此寺、藤田に付いて、此度にて両度の退院なりといふ。

先年杏庵死去の節、其由寺へ申遣し、「明日八つ時葬式を勤むる事なれば、相立ちくれらるゝやうに」と頼みやりしに、此杏庵事至つて吝嗇にて、平日寺へ勤むる事なく、寺より無心申参れども、一つとして是を聞入るゝ事なかりしかば、こゝぞよきゆすり所なりと心得しにや、「明日は寺に差支の事あれば、葬式には伴僧を立たしむべし」と、答へぬるにぞ、

顕蔵其由を聞き、大に腹を立て、「裏屋小家に住める貧乏人の如く、伴僧を立たしめんなど云へる事、不埒の申方なり、何分にも相立ぬるやう申来れ」とて、押返して人を遣せしに、寺の云へるには、「実は外の事にてもなし、役用の道具三十五両の質物に入れたり、其金を出して之を受戻しくれらるべし。今寺には聊かの金子もなき事なれば、其事なり難し」といひ募りて、諾ふ事なければ、使度々に及びぬるも其甲斐なくて、明日其刻限も近づきぬれば、拠なく右の金子持たせやりしかば、程なく出来りて葬礼をも勤めぬ。

其仕形不法なりしを憤り、これに物をも言はずして、睨み付ていたりしが、月忌を待兼ね、直に其金取戻さんと掛合ひしに、寺は素より是を取る積り故、返さゞる故、巌しく応対を詰めるにぞ、詮方なくて講中へ相談せしかば、講中より金子五両持参して、「寺の事なれば何卒是にて泳(こら)へ給はれと」いゝぬるを、聊も用捨なり難しとて、終に公訴に及びしに、死人を押へて檀家をゆすりし科重きにぞ、退院仰付られしといへり。

寺は素より不法なれども、藤田が仕方おとなしからずとて、専ら世間にても評せしといふ。此事は毛利孝庵が咄なり。同人事杏庵とは親友なりし故、其節も行合せて、是を詳かに知れり。寺の事は論なしと雖も、顕蔵が人物を見限り、夫よりしては是を遠ざけぬとて、予に語りきかせぬ。

 


管理人註
*1 藤田「幸庵」。
*2 新靱町、油掛町、どちらかか。


「文政十二年切支丹始末」 その5その7
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