Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.9.11

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「浮世の有様 巻之六」

◇禁転載◇

摂州川辺郡豊島郡能勢郡変事略記 その3

 










 
  乱妨の始末世上の風聞

七月二日の夜、摂州妙見山より乱人大将分下り来り、木根宮の寺の鐘を撞立候に付、村方打驚相集候処、乱人申候は、「別段驚には不及徳政を願立候事に付、人数を集る為なり。何れも随従致候様に」と申し、右杵の宮に滞留、其辺村々近辺人足加り集め、自然随従致さゞる者は討果すと申すに付、止を得ざる事、追々人足差出し、項上人数千七百共申し、又は二千余共申す。

四日朝杵の宮を立ち、六つの瀬の内杉生村一の宮と申すに入り休息致し、夫より清水村左助と申す方にて、昼仕度致し、銭百貫目斗無心に及、夫より佐曾利村万祥寺にて一宿。

五日の朝四つ時前、上月村油屋へ押寄せ候と申して、右村方へ立越へ、かう福寺と申にて屯(たむろ)致し候処、追々大坂御代官根本善左衛門様御人数、并大坂町御奉行御人数々百挺の鉄炮を為持、双方より右寺へ押寄せ打立と相成、大将分三人共同日七つ時分御討取と相成り、其外縄付十八人計り、坊主も之ある由。

右にて兼ねてより集居候人足共散々に逃去り、残るは一揆の者共計りと相成候。

 右は固めの場所より忍の者を遣し、大概を聞合させ候始末なり。


  追々の風聞

一、三日昼片山村定右衛門方を打潰し候由、木根の宮の東にあり。

一、森上番人少々一揆の所存に相拒み候故、立処に討果し候由。

一、杵の宮にて人気を取らんため歟、人形を自由に遣ひ候て、如何体の事これ有候共、此の如くに人を遣ひ候故、必ず心配に及ばず、怪我等は之なく候と申候。

一、大将分の中、一人始終左の耳を隠しぜられ候由。

一、大将分の中一人ははま与力・同心へ剣を教候山田大助、山田村医師忰摂州多田院の家人の由、大塩平八郎軍学の門人の由。

一、摂州池田あめや平三郎忰、名前不相分。

一、大将分へ一味の者凡三十人計有之候由。

一、能勢郡へ散札致候文句は相分らず候得共、大意徳政を願との趣意の由、其散札の内に、大塩の手跡にても之あるべくやと思しき物、四枚計り有之候。是は大坂御役所へ差出候由。

一、人足差出候村方へは紙幟一本づつ相渡し、徳政願は何村と記し有之由。

一、よしの三右衛門方へ、人足の者に二三十人計り先へ罷越可申と申付候処、人足の者申候は、「中々諸家の御手当御厳重にて、鉄炮にて打果され候節は恐敷候に付、先へ能越候義は御断申上候。もし大将分先立ち成され候はゞ参るべし」と申候へば、「左すれば跡廻し然るべし」と申候由。

一、処々にて無心申候て取り候金銭、銭の分は人足へ割渡し、相余り候へば差戻し候由。金は京師へ参り候入用とて自身所持いたし候由。

一、杵の宮出立掛に坊主を上席へ直し一礼を述べ、「世話に相成辱く候得共、今日は是より出立、もはや是にて暇乞申す。何ぞ謝儀も致度候得共其儀なし」と申聞候由。出立の跡にて見れば、床に銭五貫文差置これありし由。

一、一味の中重立ち候者一人は逃去候由、後に承り候へば打取られ候由。

一、初発五六人の処、二人は何れへ参り候哉相分らず候由。

一、七月五日の夜の話にいふ、十日已前に大塩平八郎大坂へ罷出候由、御差押へに御手配の処、何方へやら逃去候。右に付能勢郡下役の者へ平八郎に似よりの者有之候はゞ、召捕へ申すべき段、御沙汰の趣風聞これある由。

一、退治後村々に於て、追々御召捕と相成り、大坂へ御差出の様子、七日迄に最早七八十人もこれあり候由。

 


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