Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.9.18

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「浮世の有様 巻之六」

◇禁転載◇

摂州川辺郡豊島郡能勢郡変事略記 その5

 









山田屋大助は摂州能勢郡山田村の者なりといひ、其父を根来源六といふ。 多田院の家来にして、満仲公已来相続の旧家なりといへり。源六に至り貧窮に及びしかは、三十年余り已前に大坂に出来り、布屋町に於て島屋市兵衛借家に住し、按腹針療をなして、加島屋久右衛門方へ出入し、後には剃髪をなして薬をも調合し、店方・勝手等の召使の者共を療治し、追々身上も宜しく成りしにや、西横堀京町橋西詰少し北へ入る所の西側へ転宅し、薬店を開きて忰大助これを商売す。元来親子共欲深き者共なれば、間もなく薬の抜物を買ひて公儀の御法度を犯し、久しく入牢せしが、後に町内へ御預けとなる。

御法度を犯し唐物を抜買するを八幡(ばはん)といふ。之は唐音なり。抜物を密に取扱ぬるをかくいへる其始は、嘉吉元年六月廿四日、赤松満祐将軍義教公を己が屋舗へ招請して殺害し、播州へ引取て籠城せしを、山名持豊討手に馳向ひ之を攻めしかば、終に自害して落城に及びぬ。

時の将軍を弑せし者の残徒なれば、公儀へ憚りて一人もこれを召抱ふる者なし。此者とも何れも身の置処なきまゝに海賊をなし、海外に到りて乱妨狼籍をなす事甚し。明朝にてこれを和寇と唱へて、大に困り果てぬ。之が船中に建つる処の幟には、何れも八幡大菩薩と書記せし故、これをみる者ばゝんといひて大に恐怖せしといふ。これよりして不正なる事をさして八幡といへる様になれりとぞ。八幡の神号かゝる正なき事の異名となりぬる事、是非もなき事といふべし。

其後数月を経て漸々御免を蒙りぬ。此者剣術・柔術〔の脱カ師をなして町人共を弟子に取り、其業を教ゆ。又対馬屋敷に其稽古場有りて、屋敷内残らず之が弟子なりといふ。彼が人柄の様子、平常の所業を以て考ふるに、定めて不法なる剣柔ならん。され共当時武道大に衰ヘ、少しにても腕立するもの有れば、其業に何れも拙き者共なれば、かゝる者をすら鬼神の如く尊信するに至る。

別して蔵屋敷などの士は、両刀を横たへ槍をつかせ抔して、いかめしき風をなしぬれ共、町人・百姓よりも遙に劣りて、何の用にも立難きもの多し。斯る者共の彼に随従せしものなるべし。

 
 







大助が平日の有様、風呂敷包を背負ひて歩行廻るかと思へば、二尺計りの長脇差を横たへ、黒縮緬の羽織など著用し、大道一杯踏みはだかりて歩行廻れる事有り。風体の転々する事笑ひに堪へざる事共なり。其相貌は身丈至つて低く横に肥太り、丸面にして仰山に髯生ひ、音声猫の吠ゆるが如く、至て下賤の人相にしていやみ有る姿なり。

 
 





源六は至つて痩枯れし男にして、随分人品もあり。加島屋久右衛門方へ出入して按摩をなし、寝泊り等を勤むる身分にして、己が家柄を鼻にかけて、至つてなめげなる有様にて、其心不正なる人物なり。上福島葭屋九左衛門方へ源六が姉縁付ぬ。されども彼が不正なるを忌嫌ひて、至つて不快の中なりしに、いかが思ひ直せし事やらん、源六が二男大助が弟を引取て葭屋の養子とす。

 
 






然るに此者多の金銀を遣捨てし所より、土蔵にある処の脇差・小道具等を多く盗出し、出入の者を密に頼みて質物に置き、己れ斯かる正なき振舞をなし乍ら、其非を掩ひ隠さん為に、蔵の錠を捻切り、隣との境の塀に梯子を打懸け置き、外より賊の入りし様になし置きぬ。明日に至り家内大に驚き、土蔵の内を吟味するに、脇差・小道具の類、高金の物を撰みて多く取去りし事なれは捨置き難しとて、直に其品数を記して公辺に訴へぬ。其跡にて右の品々息子より頼まれて、質家へ持行かきて金借りし始末を、取次せし出入の者より家内へ告げしかば、再び大に仰天し、乍ち御吟味の息子に及ぶ事を恐れ、「品物悉く有り、其置処を失念し、卒爾なる事を願ひ奉りし」とて早々頼ひ下げをなし、御奉行所に於て大に叱を蒙り、這々の体にて引取りしが、家内大に憤り、若き者共の金銀を遣ひ過し、詮方なくて親の金を密に取出し、又品物を以て工面する事など、世間にてもまゝある習ひなれども、土蔵の錠を捻切り隣の塀より梯子を打懸け、外より賊の来りし様になしぬる事、其仕方至つて悪し。恐るべき心底なり迚、直に源六方へ引渡して之を破縁し、源六も志宜しからで常々快からざりしが、此次手に源六とも絶交せしとなり。

願行寺堀の辺に夫に死分れ、後家暮しにて、一人の娘を持てる釜屋の相応にして手広く商売するもの有り。此家養子を求むるにぞ、仲人ありて葭屋より不縁せし二男を養子に遣しぬ。先方後家くらしにて直に名前に付きし事なれは、大に気儘働き遊所狂をなし、後には心に叶ひし女を受出し、親源六が宅へ預け置きて、常に親元へ寝泊す。源六も親の身にして何の異見もなく、これを預り置きぬるうへに養家の物を頻に取込んで己が身に徳取んと、種々の姦計なせしといふ。

釜屋よりは、これ迄息子の放蕩なるを頻に異見しくるゝやうに頼みぬ るに、其事なき上に、右様の悪事を親子心を合せて工みぬる故、大に恐れ憤りて、之を離縁せんと言出でしかば、「わが子当時の名前人なれは、釜の下の灰迄彼れが物なり。彼を離縁せば家財は申すに及ばず、家蔵も共に取るべし」など、難題を言掛けぬるにぞ、女ながらも大に憤り、公訴せんとせしか共、仲人より之を宥め賺(すか)し、終に金を取られて離縁せしといふ。是等の事にて大助親子・兄弟の正なき事を思ひ計るべし。

 


「摂州川辺郡豊島郡能勢郡変事略記」 その4/その6
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