Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.9.21

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「浮世の有様 巻之六」

◇禁転載◇

摂州川辺郡豊島郡能勢郡変事略記 その6

 





 
斎藤町に絹屋卯兵衛といへる小両替有りしが、大に身上手縺れで、困窮に及びしかば、本宅を明けて之を借家とし、己れは裏家へ引込みしにぞ、大助横堀よりして此家に引移りぬ。然るに其後神社・仏閣等に富の興行始りしが、住吉にも富有て堺に於て興行ありしに、大坂北新地裏なる下原とやらんの人、其富の大節に当りしを、大助が元居し横堀の旧宅の真向ひに今井藤蔵又藤作ともいふ いへる書家有り。此者元来三河の浪人のよしなるが、これも正なき者なる故、大助と至つて親しくし、兄弟の交りをなすといふ。

藤蔵いかなる故にや、其当りし札を一見し、忽ち慾心を生じ、己れ書家の事なれば其似せ札を拵へ、大助と心を合せ似せ印など拵へて、本札に紛るゝ様にせしといふ。其富に当りたる者より先に行ざれば事なり難き事なり、僅かの間にかゝる似せ札を拵へぬる事の、速なる姦人の所作怪むべし、恐るべし。

 
 













今井は面の差合ふ事ありしにや、山田屋大助其似せ札を持ちて堺へ到り、似せ札の事なれは己が心にも咎めぬると見えて、夕暮に金受取んとて其礼を差出しぬ。富掛りの者共之を見るに、相違なき札の様子なれば、既に金渡さんと思ひしか共、大勢の中にて、之を少しく怪み思ひしもの有しかば、他の人の袖をひき、「何分にも最早夕暮に及び、掛り役人の内引取し者も有りて只今は渡し難し。明朝来りて受取られよ」と言ひぬるにぞ、大助がいふ、「我は大坂の者にして、今夕叶はざる用事あり。速に引取らざれば其用弁じ難けれは、是非渡されよ」と利屈なと言ひぬれ共、明朝出来れとて取合ざれば詮方なく、「然らば明朝参るべし」とて、其夜は堺に一宿す。

大助が引取し跡にて、彼の下原の富に当りし者出来り、金受取らんと言ひぬるにぞ、何れも面を見合せ大に驚きしが、之も「明朝来るべし」とて返せしが、跡にて何れも評定し、直に其由を御役所へ訴へしにぞ、其御手当ありしといふ。

然るに明日に至りて、早朝に山田屋大助はかゝる備有りとは夢にも知らず、金受取んとて出来りしに、下原の者も出来りしかば、忽ちに悪事相顕はれて、直に堺の牢に入れられしが、大坂へ引合となりて、間もなく引渡しとなりて百日計りも入牢す。

 
 








今井は其噂を聞くと其儘出奔して、影を隠しぬれ共、程なく召捕られてこれも同じく入牢す。容易ならざる悪事なれは、何れも首斬られぬべしと、世間にて専ら取沙汰せしが、住吉の富によつてかく罪人出来し、其命を失はしむる事、神慮にも叶ふまじく、又此噂にて富も自ら不繁昌となるべしとて、住吉の社務より内々頼ひ出でし故、御憐愍にて二人共助命せしといふ噂なりし。

大助が妻は此時夫の身の上を案じ煩ひしが、乍ち気鬱の病となりてふら\/して居たりしが、一年計り過ぎて、男女の両人子共を残し置て泉下の鬼となりぬ。憐むべき事なり。其後度々妻を迎へし。当時の妻は此家に嫁してより、未だ格別の年数にはならずといふ事なり。

絹屋卯兵衛も次第に困窮に迫り、終に此家を保つ事なり難くして、これを篠崎長右衛門といへる儒者に売りぬるにぞ、六七年前よりしで篠崎の借家となる。

 
   


「摂州川辺郡豊島郡能勢郡変事略記」 その5/その7
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