Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.10.5

玄関へ「浮世の有様」目次(抄)


「浮世の有様 巻之六」

◇禁転載◇

摂州川辺郡豊島郡能勢郡変事略記 その10

 











 
 









 
多田の近在に万善(まぜ)と云処あり。

此村の弥助といへる者は、斎藤町市物屋久兵衛といへる者の縁類なり。盆後大坂へ出来り久兵衛方に滞留し、同人が咄を聞くに、世間にていへる如く、最初杵の宮へ発頭人五人出来り、番人を切り、鐘を撞きて人数を集め、頂上二千人に余れり。村々へ廻文を廻し、従はざる者は悉く打殺すと云へるにぞ、何れの村々も是非なく之に従ひぬ。

我村へも廻文来りし故、其変を恐れて随身の由を返答し、銘々竹槍を用意し、近辺村々の様子を窺ひ、日々遠見を出し、隣村迄出来ば拠無き事なれば、是非を論ぜず此方より出行きて之に随ふべし。彼の大勢の人を当村に引入れては、仕度等を致させぬる様になりて、一度の飯を仕出ぬるも三右や五石の米にては足り難かるべし。何れも其心構にて用意すべしとて其積なりしに、もはや隣村迄出来りし故、已に打立たんとする時、諸方より討手出来りし故、一揆の方へは行かずして大坂の手に属して、先手を勤むる様になりぬ。

今一足違にて已に一揆の群れに入らんとせしに、幸にして其難を逃れぬ。危き事なりし。

夫よりして麻田・根本・小堀・石原・能勢・保科・桜井谷等の人数追々に出来りしかは、一揆跡へ引返し、寺の内へ楯籠りしを、御町奉行根本善左衛門 **1 等の人数、前後より押寄せ、大勢の狩人を先に立て、空鉄炮を打掛けしかは、之にて一揆方の人数は悉く散乱し、多くは味方の人数に加りしにぞ、

跡は残れる者とては山田屋大助・今井藤蔵・佐藤四郎右衛門の三人となりしにぞ、三人の者共も今はこれ迄と思ひしにや、本堂の内より山田屋大助刀を抜持て馳出でしを狩人に命じ、之を鉄炮にて打たせぬ。

 
 






何れも股を目当に打掛けしに、何れもあやまたず当りしかば、玉三つ迄は踏堪へしが、四つ目の玉にて打倒されしかば、今井藤蔵走り来りて之を介錯し、己れは直に引返し腹十文字に掻切つて咽笛を後へ突貫き、うつ伏に成りて死失せぬ。

佐藤四郎右衛門は少も本堂を動く事なく、自ら鉄炮腹をなし、庇口に紙を撚込め、血の漏れざる様になして、俯しに伏して死す。

何れも武士と違ひ天晴なる最後なりしと云ふ。

こは五日の未の刻のことなりしとぞ。杵宮へ始め出来りし一揆の発頭人は五人なりしが、二人の者は何つの間に何れへ失行きし事やらん、其影だにも見し者なし。三人の者共も斯る事を思立ちぬる者共とも思はれず。こは定めて天魔にて有しやらんなど専ら噂せしと云ふ。

山田屋能勢大助、今井蒲冠者範頼の末孫なりとて、蒲蔵人と名乗りしとも云ふ。始めより之に従ひぬる村毎に、幟を一本づつ立てさせて、何れも難渋訴訟人何村と書記させしと云ふ。

然るに其願の筋をも聞糺す事なき上に御料・私領の別なく、支配地頭へ一応の沙汰もなくして、領地の狩人・百姓共を我儘に人夫に取り、この者を先手とし、必竟徒党せし者共速に散乱して、烈しき戦ひなかりし故、何れも無難なりしかども、少しにても取合ざれば何れの百姓・狩人も命に係はる事なるに、不埒なる致方其儘には差置き難し、急度公訴なさんなど云ひて、何れも大に怒り憤られしと云ふ。

此の如きに狩人・百姓を先に立て、鉄炮を打掛進みぬるにぞ、一揆の人数大に散乱し、逃るあれば此方へ走加る有りて、大に騒立てしにぞ、遙の跡に控へぬる与力・同心の類は大いにうろたへ、大崩れに成りて逃出せしとて、諸人の笑物なりしといふ事なり。

 


管理人註
**1 根本は、大坂代官。


「摂州川辺郡豊島郡能勢郡変事略記」 その9/その11
「浮世の有様」大塩の乱関係目次

大塩の乱関係史料集目次

玄関へ