多田の近在に万善(まぜ)と云処あり。
此村の弥助といへる者は、斎藤町市物屋久兵衛といへる者の縁類なり。盆後大坂へ出来り久兵衛方に滞留し、同人が咄を聞くに、世間にていへる如く、最初杵の宮へ発頭人五人出来り、番人を切り、鐘を撞きて人数を集め、頂上二千人に余れり。村々へ廻文を廻し、従はざる者は悉く打殺すと云へるにぞ、何れの村々も是非なく之に従ひぬ。
我村へも廻文来りし故、其変を恐れて随身の由を返答し、銘々竹槍を用意し、近辺村々の様子を窺ひ、日々遠見を出し、隣村迄出来ば拠無き事なれば、是非を論ぜず此方より出行きて之に随ふべし。彼の大勢の人を当村に引入れては、仕度等を致させぬる様になりて、一度の飯を仕出ぬるも三右や五石の米にては足り難かるべし。何れも其心構にて用意すべしとて其積なりしに、もはや隣村迄出来りし故、已に打立たんとする時、諸方より討手出来りし故、一揆の方へは行かずして大坂の手に属して、先手を勤むる様になりぬ。
今一足違にて已に一揆の群れに入らんとせしに、幸にして其難を逃れぬ。危き事なりし。
夫よりして麻田・根本・小堀・石原・能勢・保科・桜井谷等の人数追々に出来りしかは、一揆跡へ引返し、寺の内へ楯籠りしを、御町奉行根本善左衛門 **1 等の人数、前後より押寄せ、大勢の狩人を先に立て、空鉄炮を打掛けしかは、之にて一揆方の人数は悉く散乱し、多くは味方の人数に加りしにぞ、
跡は残れる者とては山田屋大助・今井藤蔵・佐藤四郎右衛門の三人となりしにぞ、三人の者共も今はこれ迄と思ひしにや、本堂の内より山田屋大助刀を抜持て馳出でしを狩人に命じ、之を鉄炮にて打たせぬ。
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