Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.6.15

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「浮世の有様 巻之六」

◇禁転載◇

雀鳩物語 その2

 





 
つら\/此奸賊の生立を見るに、幼年の頃中村順庵といふ人に素読を稽古し、順庵歿後中井学校にて稽古をなし、夫より諸儒たよりて向上の論談を聞き、性質肝癪強き剛情なる人物故、狭量の狭き胸中より、無上に世上の不正なる人物が腹が立ち、折柄ふと王陽明先生の書を一覧してけしからず悦び、良知良能の説発明などをうれしがり、例ば南都にて沢山なる鹿を浪花の市中にて鹿を見て、珍らしがりたるやうに、けしからず此説を振廻したるなり。

其頃公辺にも御用ひ強く、剛情にて物を捌きたるが快よき事も有るなり。自負の初発なり。夫れ故大坂は勿論江戸表抔の大儒も、先づ寄らずさはらずして、追従詞計りに気象の強きを賞美してそゝり立つる故、〔頭書〕佐藤一斎・頼徳太郎など大に賞めそやし立てたるなり。日々我慢増長するこそ恐ろしけれ。

門人になりたる人にも、表には厳威も有り方正なる教へ故、且は御公辺向も時めける人故、初は門人になりたる又は権門に諂諛気 のある人物は、此男の弟子と名が付けば、世上にも立派にみゆるやうに思ふものも有り。心ある者は敬して遠ざける故、彼が著述の書に誰々も序文・跋などのなきが証拠なり。

贈答の詩文に油(諛?)計りいひたるを板に出す。是れ其心の見えてあさまし。

此男退蟄の間江戸へも参りたり。江戸にても御旗本学問好きの人など彼が我儘をそゝり上げたる事も有たると見ゆ。性得偏執つよき人物故、〔頭書〕執著つよきは陽明先生の大きらひものなり。 一旦弟子になると盟文をとりたる由。剣術抔の心得にて学文の教に盟文を取ると云ふやうなることは、むかしより決してなき事なり。*1

 
 






夫故門人の中にも外の先生にても教を乞へば、大に腹を立てゝ呵責すると承る。扨々浅増しき性根なり。此事はさしおき、陽明先生の学風といへるものは誰々も知りたる事ながら、掻抓み述ぶべし。

先づ人々学文の根本とするは大学なり。夫故此先生に大学問と云ふ有り。今三綱領といへるだけをかいつまんで云ふ時は、彼一大切の明徳・親民・至善との三則なり、これ大人の学問なり。凡そ天地を始めとし山川・鳥獣・草木は、有情・非情一切万物に我も人も少しも隔なく生育して、一体なるものにてはなきが故に、天下中も我れ一家の如く我一身の如くと心を定む。

 
 


我と天地・万物と分隔有る時は学問間違になり、小人の学文也。此一体の仁といふ。此仁の心即ち靈照不昧の明徳なり、心の本体也。

我人共にうか\/平生得手勝手の私欲におほはれ、此明徳を暗闇にする。されど元明徳を持ち生れたる故、何時ともなく光明が出るなり。これを出し擴げ遣ふ時は、道理分明に夜の明けたるやうなり。いかんぞ万物一体の仁といふ証拠なれば、小児の井に臨む時はいかやうの悪人なり共、必ず捕まへ救ふ心出る、此類ひは孟子に委し。

併し人と人となれは此心誰々も起る筈といはん。鳥獣の悲鳴を聞いて誰も忍びざる心発る。是我と人と鳥獣と一体なり。然し生有る物なれは一体といはん、草木の枯凋むをみて必が憐む心有り。

然らば草木と我と一体ならずや。しかし草木も生育にて養ふものなれは其筈なりといはん。然らば瓦石・器物の類毀損するを見て、無慙なりといふ心発る、是れ瓦石・器物と我と一体ならずや。其外天地・山川・万物何に寄らず、我と一体の仁心にてはなきか、推して知るべし。いかなる小人と雖、この情に変たる事なし。こゝが天命の性に根ざし、自然と霊照不昧なる場なり。之に分隔ての私自分の得手に引付くる利害にて、我心を攻むる故、一体の仁が亡失するなり。此所が心に解(ほど)けさへすれば物事に障りなし。

 
 


親民とは一体の仁が本体となり、親民が用の場なり。人の父も我父と同じく、人の兄も我兄と同じく、其外人々自他の差別なき故睦まじうする。〔頭書〕父子・君臣・長幼・夫婦の分ちは自然にて体あり、拵へ物にてはなし。是にとりはづせば至善に止まるといふものではなし。

すぐに山川・鬼神・草木・鳥獣にいたるまでこの感通同じことにて、一体の親民・一体の明徳同じ効用なり。この効天下に達する故、明徳を天下に明らかにするといふ。

さすれば一家の中睦まじきより国治天下平かなる、是を性を尽すといふ。是は其道理をいひたるなり、よく\/味ふべし。

 
 


至善とは明徳・親民の極則にて、矢張同じ事なれど、先づ天命我々の性は善なるものに違ひはなし。故に明徳といふ本体をいかやうなるものにても所持す。私心にて暗闇となる。此私心も我心より発るなれ共、是は習染(なじみ)といふものなり。本尊に一つ知る所あり。是が至善といふ。即良知なり。明徳の働なり。其働種々是なるは是と極め、非なるは非と弁ヘ、其外事々物々に応じて結構な智慧を各々所持する。是良知・良能にて至善共いふ。明徳の光りともいふ。

しかし止るといふ場がなきと人欲が勝ち、高上に過ぎ、又下卑になる故に、学問せずば権衡・尺度・規矩がなしに我得手勝手になり易き故、こゝが日用の働き場なり。善悪・邪正・理非明白に弁ふ者、自然と備はるが至善とも良知ともいふ。この良知の働き、たとへばいかなる変事にても有りたるに、是は此処があしき彼所を此積りにてと工夫して、十分是を救ふ理を極め救ふは朱学の風なり。

この王学は先踏込み救ふ。此時自然と持前の良知といふものあ りて、よき分別が出来るといふ様な手早き工夫なり。夫故王学にては一切万物は心の学問ゆゑ、四書・六経の類ひ皆心の註脚ゆゑ、畢竟心の覚へ書なり。時々しらべ見る位なりと迄いひ給へり。

猶其余委細は本書を見て工夫すべし。是等の事をこの男の檄文にも、大坂の米をして京都抔へは廻さずといふ。万物一体の仁といふことを知らずといふ、且又豪家の昼夜奢りを戒め貧民は構なき類、此仁徳を取失ふといふ詞は、此通のことなり。一通りの者迄成程と進め込む術なり。

されど此男の心術拙き事は、素より法華宗にて日蓮上人録といふものを見て、感心せると見えたり。いかんとなれは、右の陽明先生の語に、前にもいふ如く四書・六経の類は、皆心の註脚と説かれたり。日蓮上人諸経一切は心の手帳の類ひと申さる。畢竟諸経の類は皆方便なりといふ事なり。扨日蓮上人の録の中には、天災・地妖の前見を所々に口癖に述べ給ひ、当時王道衰へ公政向を批判せられたり。此事此男の又口癖なり。

右録の中に世人の眼を開けとて開目抄といふ有り。此男汝等目を開けといふ詞迄よく似たり。其外手強き言分を押立てる流儀、皆日蓮上人の口眞似也。俗にいふかた法華といふやうな性分なり。此性質に自慢・我慢十分にそゝり立てられたるより、かゝる珍事をも起したるなり。いと浅ましき事にあらずや。

古語に、「公平のことを説く方直なる人の、禍にかゝるは昔より多く自負の心より招き致す」と、うべなる哉。又善を勧め悪を諌むるは美事ながら、自負の心を抱く時は、かへつて人に薄く思はるといへり。皆学者の謹むべき事なり。仏教にも百魔は心に生ずと、あら恐ろしの心や。汝もさいふ中に、かへし網が足元に有るを知らずや。我も賢うらしくいへ共、鳥刺の竿眼前にあるを知らず」とて雀も鳩もいづこへか飛去たりとて、昼寝の夢はさめぬ。

 


管理人註
*1三一書房版には、次のものが入る。


檄文


「雀鳩物語」 その1その3
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