Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.9.1

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「浮世の有様 巻之六」

◇禁転載◇

大塩の乱 その7

 









上福島に厩治郎八と云へる者あり。此者御城代はいふに及ばず、同処の屋敷・近国の諸侯の館入をなし、馬入用の事有時は何時にても其数を揃へて、其用を勤むる者なるが、十九日の朝天満・川崎の辺火事なりといへるにぞ、与力・同心に彼が且那々々と唱へて出入る先々多く有りぬる故、早々身拵し、「御城には遙か隔りぬれ共、近来の火事は油断なり難し、若火広がりて御城へ近付く事あらば、尼ケ崎の馳出し有るべし。其心得にて馬を用意なし置べし」といひ置て、己れは天満与力町へ馳行きしに、町火消并穢多村の火消共与力町の四方を取巻き、屋敷内へ入込みては色をかへ、「あな恐ろし、鉄炮を打ち、抜身の槍・刀など振廻る。命こそ大事なれとて逃出づる。

何れも常の火事なりと思ひ、かゝる事とは露計りも知らざる事故、火消又は火事見舞等入込ては逃出\/、先繰りに此の如くなる故、何共分り難き事なれ共、怖物(こはきもの)は見たしといへる譬の如くにて、大勢の人の押合ふ中をこは\゛/ごは出抜けて四軒町の辺を窺ひ見るに、最早近隣を焼立て行列を正し、追ひ\/此方へ近づき来り、火矢を家々に打込み、抜身の槍・刀を振廻し、大なる旗六流を押立て歩み来れるにぞ、早々に逃出で与力町にては出入先一軒えもえ行ざりしといふ。

され共こは定て仲間合に何か申分有りて、かゝる事に及べるなるべし。名にしおふ大塩なれば、市中に出て悩す事はあるましと思ひぬる故、其辺の町々にて心易き方々を見舞つゝ、夫より用事あれば之を調へんとて、船場へ渡りてあちらこちらと歩き廻れる中に、次(以)の外なる大火となり、市中大騒動に及ぶ様になりしかば、「斯くては必ず尼崎よりニ番手の人数を出すべし。一番の用意は申付け置きたれ共、二番手の備は心付かであるべし。早く帰りて其用意せんと、馳帰りて其備へをなす処へ、二番手の馬を拵へ早く屋敷来るべし」と申来れるにぞ、使に引添へ馬西匹引連れて、尼ケ崎の屋敷へ馳行きて、二番備に加りぬ。

〔頭書〕大坂の騒動によりて尼ケ崎より馳出す。此度の変は常の出火と違ひぬる事故、何れも甲冑の用意を申付けられしに、一家中大方質に之あるにぞ、質屋へ掛合ひ、此度騒動に付き具足入用なれば、しばらくの間借しくるヽ様に相頼み、「事果ばすぐに返し渡すべし」とて種々に頼みぬれ共、質屋共これを諾はず、何れも困りはてぬるにぞ、其旨家老に達し、家老より質屋共を呼出し、此方受合にて、事終らば速に上より料物を下し置かるゝやうに取計ひ遣すべし」と、家老の受合にて漸々と承知して、質屋より夫々へ具足を相渡せしといふ。武家に不似合不覚悟の至にて、笑ふ可き事なり。

〔頭書〕大坂御城与力にも具足之なきもの多く有りて、是非なく火事装束にて出でしかば、同心共も夫故具足を著る事もなり難く、何れも火事羽織なりしといふ。

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一備の人数四百五十人、人夫共に五百人計。都合二備にて千人の人数なり。

一番手は直に御城へ詰めて追手御門外南の方を固め、二番手は屋敷に控へて御城代の指図を伝へしが、廿日早朝より、「一番手と同じく御城を固むべし」と仰出されしかば、早天より馳出して二番手引添ひ、かぎの手になりて北向に陣取しに、「京橋御門外の固めせよ」と有りしかば、直に陣を其処へ移し、漸々と陣取りし処へ、使来りて「土手の外京橋の南詰を固よ」となれば、又陣払ひして土手の外に出で、川に添ひて備へしに、又使来りて、「京橋を向ふに越へて備へよ」となれば、又ここを陣払せしが、余りに屡々備を移させらるゝ事故、何れも呟きながら京橋を向ふに渡りしが、此処は人家建連りし処にて陣場も悪しく、又此処に無理に備へを立てぬる共、又外へ移せと申来るべし。此上は敵に行逢ふ迄どご迄も行べし」とて、片町を東へ野田橋を越えて三十町計も踏出せし処へ、跡より三人連にて馳来り、「最早余程先刻の事なりしが、森口に吟味の筋ありて玉造口の与力・同心三十人計鉄炮をかたげて参り居ぬれば、御心得の為に御知らせ申すなり」と言置て引返す。こは敵なりと心得、同士討あらん事を思ひてなるべし。

夫より尼ケ崎の人数は森小路といふ処迄到りしに、何れも空腹になりて堪へ難き様になりぬ。互に顔を見合て困りはてたる有様なり。物頭がいへるやうは、「我等もかく空腹にて堪へ難き程なれば、馬も定めて同様なるべし。飼葉の手当やある」といひぬれ共、夫さへ其手当なければそこら辺りを走廻り、漸々と豆を買出し、暴卒(にはか)是をたきぬるなど、大に周章て返りし事共なり。

斯くの如くに彼是と陣取せしに、彼の三十人計り森口を目当に先へ行きしといひし玉造の与力・同心、跡より漸々と出来り、尼ケ崎の陣所へ出でて森口へ参る由を断りぬるにぞ、「遙先立つて森口へ行き給ひしと聞きしに、いかゞして後れられしにや」と尋ねければ、「道にて陣取りておくれし由」を答へしにぞ、

遙に先立出し者の跡に後るヽ故なし。こは何れも森口は大塩に故有る者多き由風聞せし事故、かの輩の巣穴の様に心得て、気後れして行きかねしに、尼ケ崎の人数大勢にて押行くを見て、之を力にやうやうと出来りし者なるべし。さもなくて斯程に後れぬるやうなし。

「然らば我等も共々に参るべし」といひぬるに、何分にも此方共森口の吟味を申付けられて、出来りし事なれば、我等計り先づ入込み見申すべければ、御勢は入口なる藪の蔭に備へなして給はるべし。若し怪しき事あらば速に相図すべし。夫迄は暫し控へ給はれ」と云ひぬる由。こは何れも気後れて進兼ね、尼ケ崎勢を便りに出来しが、是と共々に市中に入込みて吟味をなす時は、己等が前以て、申付けられし詮なきに至りぬる故、大勢の味方跡に控へあるを便りに入込みしものと思はる。

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かくて尼ケ崎の人数は、森口の入口迄進み藪の蔭に控へて見合せありしが、空腹弥増にて、何れも堪へ難くして困じはてぬ。暫く有りて玉造の人数出来しが、此処には何も怪しき事なし。「水田に心当りの処あれば之より直に参るべし」と云ひぬるにぞ、「然らば我等も共に参るべし」と其用意すと雖かく空腹にては如何せんと思煩ひぬるに、玉造も飢ゑに堪へ難しとて、大に難渋の様子にて、困りはてたる処へやう\/ とうは荷船にて、破子弁当を持来りしかば、何れもこれにて飢を凌ぎ、〔かヽる騒動に腰弁当の用意もなく、飢に苦しめるなど拙き業といふべし。夫より二つの渡しを越えて水田の方へ赴きぬるに、「馬はかへつて邪魔になれば、此処にて帰りを待つべし」といひぬるにぞ、

治郎八が云、「水田に到りて、又此処に帰り来ては大なる廻り道なれば、馬も共に従へ行きて、帰りには長柄の方へ帰り給ふべし。それとも馬の邪魔になりぬる様に思召さば、馬は是より長柄に牽行きて御待申すべし」と云ひしかども、是を聞入るゝ事なく、「何分にも是非々々此処に帰るべし。之に控へよ」と申しぬる故、拠なく之に従ひ、二つ目の渡の南手にて相待ちぬれども、夜に入りても帰り来らず、

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日暮よりして雨降出せしかども、雨具の用意もなくて頭より濡れびたしになりぬ。夜に入りしとて灯燈・松明の用意もなし、いかゞせんと思ひ煩ふと雖も更に詮術もなくて、「早く帰り来られよかし」と、夫のみ思ひ居りしに、漸々と初更前に至りて追々に帰り来れども、宵闇にして道のはかゆかず、其上雨にびた濡れなれば、大に困じ苦るしみぬ。

然るに遥か南の方より、高張灯燈三十計り燈し連らねて出来れるにぞ、何れの手へ行きぬるにや目をとめて是を見るに、南なる渡場迄出来りて其処に立止り、更に渡場を越ゆる事なきにぞ、

「如何なる事にや、之を見届け来れ」と申すにぞ、北の渡しを越えて南の渡しの北手より、川を隔てゝ眺むれば、葵と九曜との紋所なれば、「早く此方(こなた)へ渡り来れ」とて、頻に呼び喚くと雖も、少しも動く事なく何とやらん答へぬれども、夫れも分かり難ければ、拠なく此方よりして渡しを越へて、「何故に最前より呼立つるに渡しを越へざるや」と咎めぬるに、「そこら辺りを無上に駈廻り大に空腹に及び、一歩も歩み難し。何卒食物あらば与へ給はれ」と欺きぬるにぞ、渡しを引返して其由を告げしかば、何れも覚ある事なれば之を思ひやり、銘々弁当の余りを与へて之を食はしめしかば、漸々と此者共も力付きて、渡しを越えて此方へ出来りしかば、其明りを得てこれとも渡しを帰り来りしに、又下地の如くに、「京橋の南詰土手の前に備えよ」となれば、何れも詮方なく、濡鼠の如き様にて、終夜雨浸(あまびたし)になりて廿日の夜を明しぬるに、廿二(日)は朝よりして取分大雨なりしかば、何れも大に困りはてぬ。

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治郎八は片町の辺駈廻り、漸と菰一枚貰ひ来り、之を引被りて居たりしが、何れもの困れる様の気の毒に思ひしかば、「我はこれより知辺の方に到りて、雨具の積りして見るべし」とて、暫し暇を乞ひ、八軒家の筋を横堀迄参りしに、今橋・よしや橋・高麗橋・平野橋も切落してありぬる故、やうやうと思案橋を渡りて、処々方々を走廻りて頼み廻りしか共、此度の騒動にて、何れも家内を引散らしある事故、買ふ事も借る事も六ケ敷く、やう\/と合羽四枚・菅笠三枚手に入りしかば、之を持帰りしに、重たる人々之を著て苦しさを堪へ忍びぬ。

其日申の刻に至り、何れも陣払申付けられしかば、御城代の備を始め郡山・岸和田・尼ケ崎の一番手も引きぬる故、二番手も之に引添ひ引取りて、己に天満なる屋敷に入らんとする時、跡より使走来り、「一番手には陣払の御沙汰ありしかども、二番手には引取れとの御沙汰なし。元の所へ立戻りて下地の通に備を立られよ」といへるにぞ、是非なくも元の処へ立帰りて備へをなし、「何卒引取の義を伺ひ給はれ」と頼みて、其沙汰を相待ちしに、遙に時過て引取を許されて、やう\/と帰りしといふ。斯くの如き難渋せし事は、是迄遂にあらざりしとて、舌を巻いて其咄をなせしにぞ、世間にては此度の騒動につき、尼ケ崎には大なる手柄ありし抔と専ら風聞せしにぞ、之を尋ねしに、難儀せし外に何の手柄らしき事とても聊か無かりしとなり。

廿四日尼ケ崎へ引取しといふい。此日は悪徒等大勢同処へ入込みしとて、大騒動せしといふい。此度の騒動に付き、尼ケ崎の雑費八千両計りなりしといへり。余の費ある是にて思ひやるべし。

姫路より馳せ登りし人数四百人計り、龍野より出来りしも四百人計りにて、三月の始めまでも滞留せしといふ。

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