大塩の乱 その18 |
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大 塩 薩 摩 国 に 落 ち し と い ふ 風 説 |
大塩が行方知れざるに付いては、定めて薩摩へ落付きて囲まはれし者ならん。 已に天明の饑饉に米の買占をなし、大罪を犯さんとして事露顕に及び召捕られ、御仕置となりし京都の南部屋吉蔵へ、組せし張本人四宮帯刀といへる者、其節に逃れ走りしかど、厳しく御尋ありしに、とんと其行方知れざりしに、五六年を経て姓名をかへて、京都薩摩屋敷の留守居と成つて出来りしか共、同家の家来と云ひ、現在帯刀なる事はよく知れて有りぬれ共、公儀よりもいかんともなされ難くして、其儘になし置かれしことあれば、大塩も同様ならん抔と風説す。 其時の事は之を知らざる事なれ共、当時にては薩摩も出雲の国よりして大坂へ出走して出来り、大に漂泊してありぬる処の至つて奸悪なるものを引込み、此者侯の気に入りて、勝手向の事は此者の心次第にて、之が為に志くじらされ、役を取上げられ、切腹等せし者も少なからずといふ。万事此者の差図次第に侯を始め一家中、此者に混かへされ自由自在に振廻はさるゝ程の事にして、此者の為に大に人の痛みし事其数限りなし。此の如くにしみたれし薩摩なれば、公儀の大罪人を何しに囲まへる事あらんや、覚束なき事なり。されども大坂にても大塩が乱妨せるは、薩摩の加担せる故なりなど専ら風説し、江戸にても此変知りぬるや否や、大塩平八薩摩と一同に、大坂の城を攻る抔と風説ありて、下方にては誠しやかに言触らし、大に騒ぎしといふ噂なりし。 | |
南 部 屋 吉 蔵 が 闕 所 銀 |
四宮帯刀・南部屋吉蔵等が事は田沼騒動の時にして、此時も米一石二百三十目せしと云ふ。南部屋が闕所銀、京都市中町毎に銀三貫目宛二朱づつの利足にて、永々御借付になりしと云ふ。仰山なる闕所銀なりしといへり。 又当正月廿九日、出雲屋孫兵衛召捕られしが、明る日より宿下げにて町預となる。家財は悉封印付となり、帳面類は残らず御取上げにて、何か御調べの御様子なり、此者斯くなりしとて世間にて悦べる者計りにて、斯く有るべき事なりと言はざる者はなかりしが、二月十九日の騒動にて其噂も止みぬ。近来珍らしき奸悪の者にして、大に人の害になれる奴なり。斯かる不頼の無宿者を取込みて、之が自由にふり廻される程なる事なれば、大塩といへる名を聞いても、定めて怖ぢ恐れる事ならんと思はる。薩州の風説も是にて知るべし。
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