Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.12.10訂正
2000.10.29

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「浮世の有様 巻之六」

◇禁転載◇

大塩の乱 その19

 









江の子島の築地に、至つて麁末なる青楼有り。三月十七八〔日脱カの頃、一人の客来りて二日二夜も居続けをなして遊宴す。

此客決して人に逢はず、芸妓の類を呼びて遊びぬれ共、燭台を燈させず、行燈の火さへ燈心を減じて僅か一筋になし、大に明りを厭ひ、夜中小便を催しぬれ共下に下る事なく、小茶屋の二階なれば上に小用処もなき故に、紙屑籠の中に小便をなし、戯に芸妓などの手を握れるに、其手しばしはしびれて覚えなき程の事なるにぞ、こは至つて怪しき客なり。

定めて大塩が余類ならんと思ひしかば、其旨を町役人へ密に告げしかば大に驚きて、「夫は定めて然るべし、何分にも程よくあしらひて引留め置くべし」と言渡し、夫より其辺の仲衆荒し子共を招きて、出口々々を固めさせ置きて、雑喉場会所へ公儀より役人衆出張ある故、先月の大変後、阿波侯にても米屋を打潰し又米屋共不良の商ひなどなして世間騒々敷折柄なる故、御奉行所迄は至て間遠なるゆへ。当(南)堀江三丁目・上難波町・阿波町・堂島・船大工町・雑喉場町・南尾(瓦)屋町等の会所へ役人出張ある様になりぬ。 此旨を訴へ出でし処、此日は工藤何某とやらん云へる役人当番なりしが、

之を聞くと忽ち面色土の如くに変じ、其者の人相を尋し故、眉毛濃く面は下すぼりにてしか\゛/の人相なりと答へしかば、大に慄ひ出し、「夫は至つて強き奴なり。今手先の者漸々四人ならでは此処へ有合さず、之にては如何共なし難し。其方にて固めしといへる人数は何程なるや」と尋るにぞ、

「若き者共六人にて固めさせ置きし」と答へしに、「夫にては十人計りなり。覚束なければ大勢の人数を集よといへるにぞ、さように隙取りぬる内に、若彼者を取逃し候ては其詮なし、早く来りて召捕り給へかし」と、頻に之を促せ共、兎角に出兼ねて大に隙取りしか共、漸々と其青楼へ出来り、手先の者を先へ追遣りぬるにぞ、

手先の者拠なくして、こは\゛/二階に上らんとするを密に呼留めて、「其脇差をこゝに抜き置きて無刀にて上るべし。先方強者なれば脇差を奪取られ、却てあちらこちらに斬らるゝ事あらんも計り難し」といへるにぞ、

 
 








之を抜き捨てゝ四人連立ち、漸々と二階へ上り、御上意なりと捕りかゝりしに、三人の者散々になげ付けらる。其間に下より近辺なる若者共追々に走上り、棒にて散々に打居ゑ手取・足取して、此者の身体(からだ)はいふに及ばず、二階の天井・襖・かべ・敷〔居脱カ・鴨居大に疵だらけにして、漸々と召捕りて御奉行所へ連行きしに、

此者は紀州和歌山の刀屋にて、当地へ先日より商ひに来り、遊里に遊びしにて、平日より酒癖有りて、酒を飲みさへする時は頻に陰気になりて、人に逢ふ事はいふに及ばず、二便にさへも行兼ぬる程に気の引入る様になれる癖ありといふ。何程吟味なしても夫に相違なき事なれば、其儘にて放ち帰されしといふ。をかしき事なりしとぞ。

 






 












先月騒動後の事なりしが、京都小倉の屋敷米払底に相成りし由にて、 早々米を登せぬるやう大坂蔵屋敷へ申来れるにぞ、

船一艘に積みて此上は乗すに足軽・小頭を乗せ遣せしに、此者至つて鉄炮好きなるに、かゝる騒動後の事なる故、用心の為にとて鉄炮に玉薬を込めて之を袋に入れて持行しに、如何なる過ちにてやらん、此火蓋の処へ火移りしかば、思ひかけずも、其玉を飛ばして大なる音せしかば、伏見迄の間に五ケ所に番所を構ヘ、川陸共往来の人の荷物迄一々に之を改め、其余にも途中には悉く固の人数密み居る事なれば、すはや曲者有つて鉄炮を放せしとて、大勢の人数其船を取巻きぬるにぞ、

種々申断れ共之を許さず、直に此者を召捕へて入牢せしめ、蔵屋敷留守居を御召出にて御糺し有りしに、夫に相違なき事なれば其旨漸々と御断り申上げ、其米船を登せる事は御許しを蒙りしか共、入牢せし者は御免なしといふ。

 


「大塩の乱」 その18/その20
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