Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.12.10訂正
2000.10.30

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「浮世の有様 巻之六」

◇禁転載◇

大塩の乱 その20

 

西



大西与五郎大塩が伯父なる由、此者二月十九日御奉行所より、与力・同心一統に召されぬるとき、病気と称して召に応ぜさりしかば、強ひて再び之を召されしにぞ、無據出勤せし故、「其方甥平八事、乱妨炉狼藉をなす事甚し。早く行きてこれを召捕り来れ」と命ぜられしに、

大西が答へに、「彼は私甥には候へ共、私共の申す事など相用候者にては之なく、中々私などの手にあひ候様なる者にては之なく候へば、御免蒙り奉るべし」と、之を辞し、大塩が伯父にして奉行の命に背きし事故、其罪逃れ難しと思へるにや、混雑に紛れて其場より出奔せしが、有馬にて捕へられ入牢せしといふ。

此者常々大塩にあなど〔ら脱カれ、不快の中なる事なれば、決してかれに与せし事は有るまじけれ共、此度命に背きし上出奔せし事なれば、其罪逃れ難しといへる噂なりし。

 
 





瀬田藤四郎 済之助が父なり も二月十八日、息子の嫁を引連れ、衣類其外路用等十分に用意して出奔す。これは大塩に深き恩義有る事ゆゑ之に与せしか共、所詮叶ひ難き事に思ひぬるゆゑ出奔せしといふ。出奔して其罪を逃れんと思ひぬる其心中、浅ましく未練至極のことなりといふべし。之も捕られて入牢す。

済之助は古き刺子の破れ垢附きしに、古き切れの引裂きしを帯となし、首縛りてありしといふ。大しみたれといふべし。

 
 





十九日乱妨の時、前にもいへる如く、御城与力に具足持ちたる者のなく、俄に借り具足せんとて御具足奉行に到りしに、御奉行家に有らざりしかば、処々方々尋廻りて、漸々と京橋口にて尋ね当りて、具足の事を願ひしに、一存にてはなし難し。一応伺ひし上にて之を計らふべし抔いゝて、ごて\/と隙取れるうちに、大塩が徒船場へ渡り追々と進み来れる故、拠無く西町奉行と共に淡路町筋へ出張し、五人進みて鉄炮を打ちしか共、余り間遠なる故、一つも向へ届きぬる玉なし。

引続いて玉を込めんと、鉄炮の筒口を吹払はんとする時、一人の鉄炮立消えせし有つて、俄に思懸けなく玉を飛ばす。其玉其者の頬を掠りて被りし陣笠に当り、裏より表へ打抜きぬ。西御奉行伊賀守の乗られし馬、其響に恐れて跳上りしかば、忽ち馬より落ちられしといふ。

其間に玉造与力坂本源之助といへる者、人家の軒下を密み行きて一揆の方へ進みしに、一揆の方には石火矢を西向になし、西の方なる家を打たんとて仕掛け居りし処に、後より鉄炮を打懸けし故、筒口を東へ向けんとて車を押廻さんとする処に、源之助近々と進み寄り、人家の軒下より、彼石火矢に掛り居る炮術者の後より腰に鉄炮を打当てしかば、此者直にへたりしといふ。この有様を見て与力・同心四人計り進み来りて鉄炮を放しゝにぞ、之に気を得て跡より追々に進来り、一揆方には頼み切たる炮術者を打たれし故、之に力を落し散々に乱れしといふ。坂本が打留めしは橋本忠兵衛なりと、専らにいヽしかども左に非ず。高槻の浪人者也といふ。

 


森鴎外「大塩平八郎」 その15「大塩平八郎年譜」 末尾系譜
坂本鉉之助「咬菜秘記」その12


「大塩の乱」 その19/その21
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