Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.4.25

玄関へ「浮世の有様」目次(抄)


「浮世の有様 巻之七」

◇禁転載◇

 熊見六竹が筆記 その2

 
 













一、夫より平野町江出候て、茨木屋万太郎〔脱カ〕候積りの処、茨木屋は早朝四つ時は立退き、長町下屋敷へ皆々遁行き一人も居合せ不申、殊に表側余程毀ち有之候を見掛け、此処を行過ぎ候処、茨木屋の内より公儀の伏勢起り、忽ち玉薬持を鳥銃にて打伏せ、其外鳥銃凡二三十挺にて石火矢に附添居候百姓共を打散候処、石火矢引き乍ら淡路町江難波橋筋を遁行候処、淡路町にて又々尼ケ崎の勢に出会ひ、鳥銃にて打倒され、槍にて突かれ、此処にて大将と覚しき者一両人打取られ申候由、此処へ死屍三つ、壱つは首なし。此淡路町の東にも槍にて突伏せられ候死屍一つ。

一、此死骸の残りの首は、廿ー日晩方又々不残公儀より斬帰り候由。

 
 




一、此処にて大筒・石火矢壱挺公儀へ御取上げに相成候事。

一、此処の近辺にて、廿一日に井戸より鉄大筒二挺引上げ申候由。十九日 御取上げに相成候を、直様台の車を離し、井戸江打込置候の事なりと申 沙汰。但し十九日に此処にて一梃取られ候よし風聞候得共、二挺取られ 候哉とも被察候。

 





 





一、芦屋橋・今橋焼落、高麗橋・平野橋・思案橋等或は半分又は少々落懸 け、危うく相成候由。但し通行はかなりに出来候由。

一、天神橋は焼落ち、橋杭水の上に一二尺斗り相見え申候。

一、此度の総大将大塩平八郎父子天満より行方なく落行申候。并瀬田済之介・近藤梶五郎・渡辺良左衛門・庄司儀左衛門三人は同心 以上落行申候。

一、十九日朝樋口氏与力 善人の部 方へ火事見舞に行候処、同席に木屋善七 伏見町唐物屋 糟谷某の息(小鼓)抔打居合候由。然る処表に鳥銃の音頻りに聞え候故、出て見候処、鳥銃処々に鳴り、抜身の槍・長刀・剣抔を持ち徘徊する者多く、石火矢を東より引来り打放し候を驚き、家来を運れ其儘遁出し、し、天神橋へ来り候処、通し不申故西へ遁来候処、青物市場辺にて一人抜身の槍にて乾物屋の表の物を突砕き居候が、樋口氏を見て、鎗を以て向ひ来り候故又々取て返し遁候処、跡より追懸け来候故、最早間近く相成、無拠一刀を抜立戻り斬払はんと致し候へば、勢ひに恐れ候哉遁行候由。其時自身も亦天神橋へ来り候処、通行出来候間漸く遁帰り候由。扨々危き事也。自身の話なり。

 
 
山田屋大助

一、篠崎の西隣山田屋大助と云ふ者、天神の社南門を出候時、東より石火矢を引来り大音声にて、「往来の者早く遁げよ危い\/」と呼はり候故、東を顧み候処、石火矢に旗を立て、大将と覚しき者鍬形打つたる兜を著し、羽織・袴の侍手に火縄と采配を持ち附添居候を十間計りに見懸け、驚いて一散に遁帰候由。

一、或人難波橋北詰江出候処、東より石火矢を引来り候故、驚き西へ遁げ尼の屋敷にて見請候処、大将と覚しき者「焔硝を持来れ\/」と頻りに呼はり候得共、焔硝折節なかりしや、如何致し候か、其内橋を南へ石火矢を引渡しけり。橋の上なる人々一度にどつと遁行きしを見懸けたり。 橋の北詰にて斯く呼はりしは、大根屋を打潰さんとの為なりける由、後に風説せり。

 
 














一、或人曰く其時橋詰の青物市場ヘ、紀州侯の荷物を揚げ候に付、悪党共石火矢に 34 て打んとせしかば、荷物附きの人二十人計り、「是は紀州様の御 荷物なるぞ慮外すな」と呼はり、「打たんとならば、我々を打つべし」と云ひければ、 其人に向ひ空筒を打ちければ、人々ぱつと散りけるとぞ。

一、或者難波橋を半分渡りける処ヘ、石火矢を引来り候故、驚き立戻り遁 けるが、こけたりける其上へ追々こけゝる。欄干をもち漸々立上り一散 に遁げけれども、橋の南詰にて石火矢に追詰められ、欄干を越へ岸岐え飛下りすくみ居て、南詰の俵屋の西隣の酒屋を打つを見たりと云へり。

一、天満十丁目筋鳥居通り北へ入る所に、山本屋治兵衛と云ふ木綿屋は、我等知る人なり。其向に紙屋あり、其家へ吉田屋藤兵衛 船津橋北詰の砂糖屋 出火見舞に行き酒飲み居候処へ、ばら\/と来る故、覗き見候処、一人店の紙へ焔硝を懸け火を附け候故、驚き候て「御助け御助け」と呼はり候処、 「助けてやる、裏へ遁げよ」と云ふ声と「殺してしまへ」と云ふ声と一時に聞え候故、其儘家内諸共裏へ遁出候処、石火矢を表の二階へ向け打放し候由、跡を見ずして遁出たりとぞ。是又危き事なりける。夫故山本屋は丸焼に遇ひたる由、今廿二日迄山治に逢はず。

一、天満南は大川、西は堀川、北は寺町通迄。東は川崎野原迄一円に類焼。 朝五つ半時より九つ時迄に焼込す、誠に早き火事なり。

 


「浮世の有様 熊見六竹が筆記」その1/その3
「浮世の有様」大塩の乱関係目次2

大塩の乱関係史料集目次

玄関へ