Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.5.9

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「浮世の有様 巻之七」

◇禁転載◇

 熊見六竹が筆記 その5

 






一、同日天満焼き歩行候節、旗三本三社の託宜并に桐の紋の旗は前條に記する如し。其外に題目の旗一本有之候由、見請候者有之の事、其外旗竿に巻附け有之候旗数本有之候由風聞。

一、十九日或人大塩方へ見舞に行き候処、大塩抜身の槍を提げながら、「其方は味方致すべくや不致哉尋候間、恐敷候故、御身方致すべし」と申候へば□□て振り、飯二つ兵糧と唱へ相渡し、又喰はせもさせ、扨「何ぞ武術を心得候哉」相尋候間、「弓を少々致候由」申候へば、早速弓矢を渡し候間、彼弓矢を持ち跡に付いて、十丁目筋辺にて隙を考へ遁帰候との事。

一、十九日又或者参候処、以前の通申聞け承知の上、金子二両差出し、「是を持て」と申候間、其者申候には「金子は用意御座候」と辞退致し候へば、「然らば車を押せ」と申すに付車を押し、是も天神の東横町辺より遁出し、難なく遁帰り候由。

一、握り飯は五合の飯を二つ宛に握り候を、長持に凡そ五棹も有之と申す事。此五棹の飯出し候事、小人数にては相不成儀、如何致し候哉と申居者有之、是は実説哉否哉を知らず。

 
 





一、伊丹の某と申馬士両人を正月何れの頃か召寄候処、一人は不参、一人は参り候処、金子五両与へ、「其方に相頼候用事有之候。近日に人足分入用に候間仕立申すべく、其節可申遣由申聞候て帰宅の後、不参の一人へ右金子見せ候処、其者後悔致し参候はゞ、「我も五両貰ひ可申に」と申居候由。其後十八日夕俄に右の者を呼寄せ、金子十両与へ、人数何十人とか仕立て申旨申付候由。因て其者伊丹に帰り、彼一人にも申聞かせ、人足頼候へ共、夜中と云ひ急なる事にて人足一人前壱朱づゝ可遣申候得共、一人にも出来不申故、今一人の彼不参後悔致候者と二人連にて、又々大坂へ参り候道にて、間道より歩行き途中何か道々一人々々まき\/参候間、彼一人拾ひ取り見請候処、お祓の裏に紙を附け、「今度万民救の為、大坂市中焼打に致候間、皆々加勢可致候旨書附け有之候に付、彼者驚き遁帰らんと致し候処、先の一人大に怒り、脇指出抜き切付けんと致候に付、早速遁出し漸々遁帰り候由、先の一人は参り味方致候哉、又は他所へ出奔にや帰り不来との事。

 
 



一、十九日朝大塩内に居申候若き書生、是は高槻か淀かの五百石も知行を取候侍の子息の由。勿論一味同心の腹心の若者に候処、大塩命令にて「兜を著よ」と申候へ共、著不申故、強て申候へ共、一向承知不致候処、引捕へ咽笛を抉り殺し候由。

 


石崎東国「大塩平八郎伝」その112


「浮世の有様 熊見六竹が筆記」その4/その6
「浮世の有様」大塩の乱関係目次2

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