Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.5.5

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「浮世の有様 巻之七」

◇禁転載◇

 熊見六竹が筆記 その4

 



一、当一件は一朝一夕の企に無之由、西御奉行様御巡見の御通行天満へ御出の節、七つ時にも相成り候へば、其節途中にて変事を起し、直様旗上げ可申巧にて有之処 従是上は風聞の説也。 十八日夜泊り番大塩格之助与力小泉某・同心両人其手都合内々申合せ居候処、立聞の者有之、早速公用人槍を以つて小泉を突留め候処、格之介は稲荷の社を越遁亡候由風聞 此一絛後に氏の文面にて実説相分候。

一、十九日御巡見は十八日御触有之候処、十九日早朝俄に延引の由、御逹し有之。

一、或説に云く、十八日夜小泉某返り忠にて内々巧の段、御奉行様へ申上候に付、大塩父子并瀬田才 済カ 之介御召寄御吟味対決中、返答に行詰り 候節、格之介刀を抜き、小泉某が腕を斬落し候に付、御奉行様御怒りにて御手打に可被成候処、瀬田鍋 (済カ) 之助抱留め候間、其隙に大塩父子遁去候由、瀬田は連判切腹致し候共申候事。

一、十八日夜守口村吹田の百姓に施行致し遣候間、十九日暁天より大塩宅へ皆々可参候由申触候由。夫故早朝より百姓追々大塩宅へ参り候由。北より走来候百姓共、大塩は何処に御出にて御座候哉と相尋走り参り候者、何十人共不知と風聞。

 
 








一、十九日朝大塩宅にて百姓に申聞け候は、「此度万民救の為市中を焼打に致し候間、一味仕り石火矢の車を押行可申段申聞、不承知の者数人切捨て候に付、百姓皆々恐れ一味致候由。後に大塩家宅焼場に死骸六つ埋め有之全一味に背き候者と被存候。

一、十八日夜八つ時過天満与力町にて、合図の烽火三つ上げ候由。

一、十九日朝百姓の目前にて、自分の妻・格之助妻子等不残切殺候由申候。或説には伊丹紙七と申す者へ、十四日頃大塩平八郎婦人を五六人召連れ参り、預置帰候故、家内には児女の類一人も無之共申す事。

 
 





一、十九日与力町江火事見舞に参り候人、石火矢押行くを見掛け候処、石火矢に附添居候者一人、白無垢の袴幾枚も重ね候者兜を著し居候由。其傍に抜身の槍又は刀を持候もの数人附添居候由。長刀も一人有之候由。白袴は大塩平八郎也と申候由。

一、十九日多坂氏 *1与力にて善人方 へ見舞に参り候者承り候は、早朝多坂氏の門長家の壁を摧き、芦の長さ三四尺計りにて、丸行燈位のもの一把擲込候処、忽ち火発し長家・屋根・床も一時に砕け候よし、併し能防ぎ候哉、多坂氏一軒は残申し候由。門前は抜身奔走致候由見請帰り申候。帰路裏の竹藪を切開き、遁退き候由。藪間龍吐水の幅より五六寸も広く候に付、棄置候龍吐水を立戻り取帰り候由、此人は平生臆病らしき人に候処、今度は余程勇気の働に御座候。此一條自身の話なり。

一、十九日淡路町一丁目某家内夫婦・子供二人・下女□人の処、主人長病、妻は熱病にて平臥。下女も病気の処火事近く相成候処、頃長柄村親類より参り、妻を駕籠にて連れ、主人を負ひ遁退候節、下女・子供両人を背負い家を出でて半丁計り参候処、抜身の真中故下女病中と云ひ、旁々以斃れ候て、漸々起上り後を顧み候処、已に其家へ石火矢を打ち、黒煙纏ひ候。見ながら遁退候由。

 


管理人註
*1坂」。


大坂東町奉行所図
川崎与力屋敷復元図
石崎東国「大塩平八郎伝」その105


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