Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.5.19

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「浮世の有様 巻之七」

◇禁転載◇

 熊見六竹が筆記 その8

 
 


一、廿一二日平野町辺井戸の内より、革葛籠一つ出申候由。内には書物類入有之候と申す風聞。如何なる書物なる書物とも見たる人なし。

一、同じ辺の井戸より槍又は鉄炮抔も出で候由風聞。

一、難波橋通り何れか、路次の内に鎗一本棄有之候と申す者あり。

一、勘助島にて大塩組十四歳に相成候者被召捕候由。此者大筒を能打候者の由、但し廿一二日頃也。但し此者大塩出懸列に□歳にて松本林太夫と有之、其者ならんか。

 
 






一、十九日八つ時頃、石火矢を平野町東より引来り、茨木屋の前より南へ壱弍挺引行く処、淡路町二丁目にて此石火矢・鉄炮召とられ候由。尤大塩組遁退候節、自身に井戸へ鎗・長刀・刀・石火矢・鉄炮の類抛込置き候哉共被察候。大塩組の遁退候節は、衣類も脱替遁退候哉とも申す人有之候。

一、十九日七つ時頃、堂嶋巴の辻にて、鉄炮かたげ候平士二人其辺の者集り、討斃し捕へ候由。又蜆橋を北へ壱人遁候者有之候をも捕へ候との事。

 





 





一、吹田西の社の神主は其頃信濃守と申す由、平八郎弟也と申事。此者前文氏書状中に有之。権八郎と申すは同人異名也。此者切腹と申す噂、其後養母を鎗にて突殺し (一説には刀にて両断に切候とも、百姓壱人に手負せ候処、村中の者驚き表門に集り、彼是騒働致居候内、裏の竹藪を切開き遁亡候由。其跡妻子被召捕、養母の死骸は御検使立ち候て相済み、吹田村は人出入一切禁制致し居候由。

一、伝法屋親類右辺の在に有之。其大庄屋の後に御米蔵有之。其廻りに大池あり。其縁に人一人伏居候を危み、百姓二三人見に行き候処、大に叱候故皆々驚き引返し候へば、直様に咽へ刀を突刺し、其儘ざんぶとはまり候。早速神崎御張へ訴江出で候へば、役人御出被改候処、切腹致し有之、仍て首切落し持帰られ候。其後死骸を長持に入れ来る様被仰付候て、大に騒動致候事右伝法屋へ見舞に見え咄有之候。是誠の吹田村の神主也。

一、又或説に右神主宅吟味致し候節、庄屋二人一町程も手前に牀几に懸かり、百姓大勢先に立たせ候処、気味悪しく候てどや\/申居候処、中に強気の者両三人竿の先へ提灯を括附け、わつと差出し候処、提灯の弓外れ候にや、そりやこそと遁出し候へば、跡の庄屋も牀几を返し、どつと一同に遁出し候。何の事も無之候故又々詰寄せ、今度は漸々四五人内に入り候へば、味方の内よりやいと一言悪ちやり申候故、又々先の如く周章(あわて)候事、実に可笑き次第なりと申候事。

一、此玄蕃信濃守事、十九日早天長柄の渡し場にて申候には、「我等も此渡場渡り候事今日限なり」とて、金一歩渡守に遣す。尤火事装束に槍を持居候由。扨其後其辺の穢多村へ行き、穢多を驅催し加勢に参り、終日相働夜に入り、吹田村江引取候由風聞。

 
 






一、本町辺の人、十九日出火見舞に参り候処、石火矢に出会ひ、悪党共不知見物致し居候処、先に鉄炮二三十挺切火繩にて行き、次に旗立て大勢抜身にて火事装束を著し参り、其次石火矢、其跡抜身刀三十人計り、其次革葛籠三荷、其次又抜身鎗刀三十人計り、其次長持一棹、又抜身三十人計、其外色々物有之候由、都合二三百人も有之候由。難波橋を渡候間、跡に附参り候処、橋の中程迄石火矢放し候に驚き跡へ遁戻り、本町へ遁帰り候処、本町辻にも亦、抜身鎗・刀二十人計り立竝び居候に驚き、其背(うしろ)を通り候処、「前を通れ」と申候故前を通り、漸々帰宅致候由。本町の抜身は御手当の御人衆なりけり。

扨天満にては、諸人一向逆謀とは不心付候故、優々たる事にて皆々見物致候程の事なれば、船場へ渡り候て人々始めて驚ける故、類焼は過半丸焼の由。

一、廿一日船場井戸より引揚げ候鉄大筒と申すは、十匁筒なるべし。石火矢は皆木筒なりけるとぞ。

一、十九日に大筒打ち歩行候節、東与力町にて二挺破砕け、西与力町にて三廷破候由。大筒都合八挺の処、五挺は与力町にて破れ、船場へ引渡りに(しカ)は三廷にて有りけるとぞ。

一、或人廿五日与力へ見舞に行候処、主人は留守にて僕計り囲ひを致し居しが申候は、「船場は大に仕合に御座候。八挺の石火矢五挺は与力町にて三廷引行候なり。八廷皆船場へ行候へば、大変無此上事、大坂中を焼可尽も知れず」と申居候。

一、二十三四日頃鴫野辺か、悪党の内一人切腹致し居候由風聞。

一、同日頃闇峠にて、一人縊死居候よし。具足著用の儘に候故大笑なりと申事。

 


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