Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.9.5

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「浮世の有様 巻之七」

◇禁転載◇

 大塩動乱の顛末竝に著者の管見 *1 その3

 
 















然れば二月十七日に相成り、明後十九日は弥々三度目北の方御巡見と相成候処、爰に東御組同心平山助次郎と申す者、封書を以て組与力・同心并浪人・百姓共徒党致候趣、右山城守殿へ差出し、其身は同日出奔。江戸表へ罷越候趣申置き、 出奔の由風説に、矢部駿河守殿御屋敷へ罷越し訴人の趣に相聞え候。

    評に曰く、此書如何なる事を認候哉難計。乍併風説を考候へば、天より給ふ事といふ檄文を認め、町人・百姓の政事を誹謗して、或は跡方も無事を竝立て、己が庸才に誇りて人を蔑に嘲したる文面、又は両御奉行御指図方の不宜、依之諸色高直抔と凶豊の弁なく申立候書面、且亦御巡見を待受け、組屋敷え御入の節両方より挟み、火矢・鉄炮の類にて打留め、夫より大坂町中焼払ひ、富家の財宝を以て軍用となし、首尾よくば御城迄乗取り可申企て有之趣等、逐一に認め可有之と被考候。

 











翌十八日、右の次第山城守殿より伊賀守殿へ御談合に付、「不取敢手 当可致旨」答候処、山城守殿被申候は、「拙者存寄り有之候間、今暫く御見合可有候由」に付、其儘退出の上御手分け、御組与力吉田勝右衛門呼出し、右の企て実否相糺し候様被申付。依之吟味の処、格別の儀共相見え不申段、返答に及び候へ共、尚亦不安気に被思召、又々勝右衛門へ再応被申付、夜に入り亥の刻罷帰る。然る処丑の刻頃東御組同心九郎右衛門吉見英太郎・同郷右衛門河合弥七次郎*2、右両人若年と乍申、西御役所中の口へ罷出で、御家老へ直に申上度き次第有之候由」申入れ候間、取次の者此段当番家老中泉撰司・公用人下山弥右衛門へ通す。右両人早速呼入致対面候所、言語道断の趣委細認内訴状、并徒党の者共の檄文相添へ差出し候間、撰司承届け即刻松本嘉藤太へ相通じ、出席の上亦々吉田勝右衛門呼出立会にて、右訴人申條伊賀守殿御糺有之、無相違に依つて直に勝右衛門へ、右徒党の者共召捕候様、今晩中手当可致旨被仰渡、勝右衛門急に退出。右の訴人共は夜明け候て、総会所へ御預に相成る 後に江戸表に召登御詮議有之

山城守殿江、嘉藤太為使者遣さる。右の訴状并檄文共に持参の上入御覧、扨両組一手当に致し、即刻可召捕旨手筈悉く御示談申上げ、退出致す。扨亦勝右衛門儀は御役所より引取るや否や、即刻同人宅へ同組共集る様相触れ候間、不残参会に付、又々東御組中呼向へ候へ共、是は御役所より御呼上げに相成罷出候段相答へ、壱人も在宿不致。依之手筈大に相違致し、且は山城守殿如何の存寄りにて呼上げられ候も難計、殊更一組にては人数も不足の事故不得止事, 組中一統西御役所へ相詰むる。

扨又山城守殿夜明け、以使者伊賀守殿へ御出有之様被仰越, 尚亦同心二十五騎鉄炮持参にて被遣候様申来候。依之伊賀守殿には不取敢御平供にて、東御役所へ御出で、尚又天満の方へ火の手見候はゞ、皆々火事装束・著込等相用ひ、本供の手当より迎に参可申。同心共は夫々手当跡より遣候様被仰出御出に相なる。

扨十八日東御役所泊り番にて罷在候組与力 荷擔へ(荷擔人?)随一瀬田済之助・小泉淵次郎両人に有之にて、山城守殿嘉藤太退散の跡にて、余り心外に被思召候哉、内々小泉一人呼出し、右の企 被糺懸候処、一言の申開き可有様無之、赤面の体にて逃出で候付、山城守殿近習熊野宗五郎右の淵次郎へ切付け、二刀にて仕留致し即死す。此物音に驚き、未だ当番処に休居候瀬田済之助、小泉呼出に相成候故、心付居候哉、寝巻の儘大小追取り、庭前の塀を乗越逃去候時刻、暁方にも可有之。

 


管理人註
*1 三一書房版は「堀伊賀守家来筆記」
*2 河合八十次郎


大坂東町奉行所図


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