Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.7.5

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『洗心洞箚記』 (抄)

その20

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

附録抄

  大塩中斎君              角田簡

南豊・岡の角田簡(つのだかん)、謹んで大塩中斎君執事に白(まう)す、
に社友田能村君彜(くんい)大阪より帰るや、僅に恙無きを叙し畢りて、乃ち先づ執事に及ぶ、
因つて洗心洞箚記の編を出だして以て贈り、僕に謂うて曰く、
此れ乃ち大塩氏の著はす所なり、
近日大阪に実学を以て顕はるる者、唯だ中斎子あるのみ、
余幸に一再、相見て、語次足下に及び、以て此の書を乞ふを得たり、
中斎子の之を著すや、唯だ従游の生徒の為めにし、世に弘布するを欲せざるなり、
故に朋友の中、真の知己者にあらざれば則ち敢て以て示さず、
足下請ふ寓目し、以て尋常の観を為す勿れと、
僕因つて之に応じて曰く、
夫れ其の人にあらざれば則ち肯て示さざる所のもの、但だ尊兄の一言を介して、豪も遅疑することなく輙(すなは)ち恵賜せらる、
僕の不肖何の幸か此の恵に遇ふやと、
乃ち拝受して帰り、毎宵心を潜めて之を読み、乃ち巻を掩(おほ)うて歎じて曰く、
議論確実にして、末流学者の病に切中せりと、
他日君彜に請うて曰く、
此れ蓋し宋明醇中儒の語録にして、而て今人の著作の比にあらず、
我が邦元和偃武より而来(このかた)二百十余年、此の如きの書絶えてなくして而て希に有るものなり、
孟子曰く、
原泉混混、昼夜を舍(や)めず、
(あな)に盈(み)ちて後に進み、四海に放(いた)る、
(もと)ある者此(かく)の如しと、
夫れ中斎君の嘗て仕途に居るや、志経世に在りて、克(よ)く其の績を效(いた)せり、
今や止足の道を知り、急流勇退、世事忘るる如く、恬澹(てんたん)にして居り、沈晦(ちんくわい)自ら養ひ、唯英才を育するを以て楽と為し、進退時に隨ふもの、亦た皆学の本あるを以てか、其の志節の高き、以て想ふべしと、
君彜以て知言と為せり.
僕の学を講ずる、豈以て論ずるに足らんや、
然れどもすでに交を左右に納(い)れんと欲す、
則ち黙して已(や)むべからざるなり、今妄(みだり)に其の略を説く、
伏して請ふ、
執事煩に耐へ妄聴せよ、
僕少(せう)にして大阪に遊び、業を奠陰社(てんいんしや)に受く、
居ること二年ばかり、
竹山翁病に擢つて逝く、
是に於て期株Cを給めて西帰せり、
爾後寒郷に(せんぷく)し、書籍甚だ乏し、
是を以て寡聞固陋、学に進歩なく、枉(ま)げて日月を消するのみ、
年三十四五に比(およ)び、始めて寡君に陪従して東江都に如(ゆ)く、
此の如きこと凡そ六たび、
公事の暇、一二名儒の門に遊ぶと雖も、唯だ是れ記誦詞章に馳(ちむ)し、名は宋学を治むと曰ふと雖も、夫(か)の居敬窮理の術に於て、実に未だ嘗て工夫を用ふるあらざるなり、
日月荏冉(じんぜん)、歳我れと与(とも)にせず、
已に五十に及ぶも、童習白粉(どうしゆうはくふん)、悔ゆと雖も及ぶなし、
然れども来る者は尚追ふべし、
今にして復た発奮磨(ろうま)すれば、則ち聖学の本庶(こひねが)はくば尚以て知るを得べきか、
是れ則ち僕の自から冀望(きぼう)して講学を廃せざる所以なり、
執事の書を読むに及んで、始めて余姚(よえう)良知の旨を知り、亦た復た程朱の帰趣も此に外ならざるを知るを得たり、
其の啓発を被る多からずとなさず、
豈大幸ならずや、又た僕の学を講ずるや、国より畛域(しんいき)を設くるを欲せず、
是を以て先儒の書を読む毎に、程朱と合はずと雖も、其の経旨を発するものあれば、必ず之を採用し、以て講学培養の地と為せり。
况や執事の箚記の編に於てをや、(さき)に毛西河の大学問、大学証文を読みて、而て朱子の改本を読むは、真に旧本を読むの善きに若かざるを知る、
是に於て旧本を取つて之を読み、乃ち一書の関鍵全く誠意に在るを悟れり、
何ぞや、大学の首功は、止るを知るに在り、格物は止るを知る所以なり、
修身の首(はじめ)は誠意に在り、
誠意の手を下す処は慎独に在り、
独を慎み、意を誠にすれば、則ち心正しく身則ち修まる、
故に誠意を以て修身の本と為すなり、
中庸に曰く、
善を明かにして身に誠なりと、而も亦た慎独を以て誠身用工の処と為せり、
中庸に又た曰く徳性を尊んで問学に道(よ)ると、
孟子亦た曰く、
其の志を持して其の気を暴する無れ、
我れ言を知り我れ善く吾 が浩然の気を養ふと、
又た尽心知性の章及び牛山の木、或は鈞(ひと)しく是れ人なりの章の類、挙(ことごと)く皆存心養性の事にして、而て格致誠意と、其れ同一軌なり、其れ是の如くなれば則ち聖学の本は全く此に在るなり、
夫れ学庸孟子に言ふ所を以て根脚と為さば、則ち論語に載する所の孔子一貫の教も亦た或は階(かい)して升るべきなり、
是を以て孔子の教を得んと欲せば、則ち学庸孟子を主とするに若くは莫し
、学庸孟子の教を得んと欲せば、則ち居敬窮理を以て主とするも亦た可なり、致良知を以て主となすも亦た可なり、
或は気質を変化するを以て主となし、或は虚を主とし静を主とす、
亦た復た不可なることなし、
故に聖学の本を知れば則ち其の手を下す処や各々自ら異なりと雖も、其の成功に及びては一なり、
是に於て乃ち執事の学を論ずるを知る、
曰く太虚、
曰く致良知、
曰く気質を変化す、
曰く死生を一にす、
曰く虚偽を去る、
皆是れ聖学に人るの要領にして、而て先儒立てし所の教を併せて以て一家と為す、
(うべ)なり、
其の議論痛切にして、(てんぼく)破れざるや、抑々僕の言此に及ぶと雖も、内外を合はすの工夫、未だ其の功を用ひざれば、則ち知行岐(わか)れて二となり、未だ自ら欺くの失あるを免れざるなり、
其れ是の如くんば則ち只口耳の学にして、真知実得に非ざるなり、
夫れ真知実得に非ざれば、則ち言はざるの愈(まさ)れるに若かず、
然りと雖も徒に口を拑し短を護し、己の志を言はざれば、則ち独り執事一顧の恵に孤(そむ)くのみならず、亦た君彜(くんい)をして執事を欺かしむるなり、
故に以て此に及ぶ、
然れども豈敢て自ら以て是と為さんや、
正を左右に取らんと欲するのみ、伏して請ふ諸(これ)を諒せよ、
十一月十二日、中斎君執事に奉呈す。
角田君は阿藩の臣なり、俗名は才次郎。

   【原文(漢文)略】


石崎東国『大塩平八郎伝』 その58


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