山田準『洗心洞箚記』(本文)146 Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.6.1

玄関へ

大塩の乱関係史料集目次


『洗心洞箚記』 (本文)

その146

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

上 巻訳者註

           一七五 後儒・孔子の温良恭倹譲の五字を以て、其の  でんしんしやしん     はつきやうがうき            たい  伝神写真と為す。故に発強剛毅を以て、英雄の態と  為し、而て聖人の事と為さざるものあり。是れ乃ち       もと         そむ  大に天道に惇り、而て甚だ中庸に叛くなり。夫れ温  良恭倹譲は、即ち柔徳にして陽徳にあらず。柔徳を        しりぞ  せいぎうらう  尊んで陽徳をく、乃ち青牛老の道にして、而て我                   が夫子の道にあらざるなり。故に夫の温良恭倹譲は、  特に其の政を聞かんことを求むる時の気象徳容のみ、      かうちう       ちう    くわい  亦た何ぞ膠柱せんや。両観の誅、夾谷の会、三都を  こぼ    ちんごう  堕つの挙、陳恒を討するの請は、是れ発強剛毅にあ                    ひと  らずして何ぞや。聖人の神化万変太虚と斉し。豈春          さつ          じちう  温のみありて、秋殺無からんや。要するに時中のみ。  あゝ               かうさ  たん  吁、後人政を聞くを求むれば、則ち狡詐百端、進取    のち                  いん  して後止む。而て猶温良恭倹譲を称して、以て陰に             ふせ  正人の或は用ひらるるを禦ぐ。其の禍害に当つては、    そんひ  けい  則ち遜避千計、逃れて而て安んず。而て尚発強剛毅   にく        あきら             はゞ  を憎みて、以て顕かに君子の或は行はんことを阻む。           なづ かゝは  而て正人君子も亦た泥み拘りて、而て天道中庸の神                 そたう  化を知らず、却つて衆人の為に沮撓せられ、其の万  分の一を行ふを得ず。則ち豈惜むべきにあらざらん     うら             まつ  や。豈恨むべきにあらざらんや。吾れ宋末の諸君子  の為めに、此の一論を発し、謹みて其の天に在るの  せいれい  精霊に告ぐと云ふ。   後儒以孔子温良恭倹譲五字、為其伝神写真矣、   故有発強剛毅、為英雄之態、而不聖   人之事、是乃大惇于天道、而甚叛於中庸   也、夫温良恭倹譲即柔徳而非陽徳、尊柔徳而   陽徳、乃青牛老之道、而非我夫子之道也、   故夫温良恭倹譲、特其求政時之気象徳容耳、   亦何膠柱焉哉、両観之誅、夾谷之会、堕三都之   挙、討陳恒之謂、是非発強剛毅而何、聖人之   神化万変与太虚斉焉、豈有春温而無秋殺哉、   要時中而已矣、吁、後人求政、則狡詐百端、   進取而後止矣、而猶称温良恭倹譲、以陰禦正   人或用、其当禍害、則遜避千計、逃而安矣、   而尚憎発強剛毅、以顕阻君子之或行、而正人   君子亦泥焉拘焉、而不天道中庸之神化、却   為衆人沮撓、不其万分之一、則豈   非惜乎、豈非恨乎、吾為宋末諸君子、   発此一論、謹告其在天之精霊云、



論語学而篇に
見ゆ。

中庸に出づ。



。しりぞけ
去る。

青牛老。老子
青牛に乗つて関
を出づるに本づく。

膠柱。琴の柱
に膠を塗れば絃
が固着す、因て
変通せざるに喩
ふ。
孔子少正卯を
両観に誅す、前
出孔子魯君を助
けて斉侯と夾谷
に会す。
孔子魯に相た
る時、孝子孟孫
叔孫三家の都城
を毀たんとす。
陳恒。斉の弑
臣陳恒を討せん
と謂ふ、論語憲
問篇に見ゆ。

時中。中庸の
語、前出泥み拘り。温
良になづみ拘は
る。


宋末。学者講
経に偏し討乱に
疎なり。


『洗心洞箚記』(本文)目次/その145/その147

大塩の乱関係史料集目次

玄関へ