山田準『洗心洞箚記』(本文)252 Я[大塩の乱 資料館]Я
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『洗心洞箚記』 (本文)

その252

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

下 巻訳者註

一〇三  (つづき)          かんいつ      なには      ふし  壬辰の夏六月、予閑逸無事を以て、浪華を発し伏            ゆ       うか  水に至り、而て江州に之き、湖に泛んで以て中江        ゐせき            せいかうひ  藤樹先生の遺跡を小川村に訪ふ。小川村は西江比   らだけ              かいそう  良嶽の北に在り。先生は我が姚江の開宗なり。其                     お    むね  の墓に謁し、其の容儀道徳を想像し、涙墜ちて臆   うるほ  を沾す。其の書院存すと雖も、而も今先生の学を              べうえい  講ずる者なし。其の門人の苗裔医を業とする者、      かんしゆ しゆてふ       こゝ  乃ち之を監守す、守の如く然り。予是に於て詩            ゐんはん       つ  を賦す、詩に曰く、「院畔の古藤花尽くる時。湖   うか           せきけん  に泛んで来り拝す昔賢の碑。余風比良の雪に似た      りうめつ                 るあり。流滅して人の此の知を致す無し」と、帰   おほみぞ  時大溝港口に於て復た舟を買ふ。予従ふ所の門生     どう  及び家僮と四人のみ、更に同舟の人無し。再び湖  に泛び、南して坂本に向ひ、将に吾が郷に還らん  とす。而て大溝より坂本に至る、水程凡そ八里ば                   いてふ  かり。此れ即ち我邦の里数にして、異朝の里数に  非ざるなり。異朝の里数に当つれば、則ち六十八       ともづな  せう     ひつじさる  九里なり。纜を解きを結ぶ、既に未申の際なり。                さつ/\       而て日晴れ浪静かに、柔風只だ颯々たるのみ。小  松の近傍に至る、北風勃起し、湖を囲むの四山各々          きやうらんげきらう  声を飛ばし、而て狂瀾逆浪、或は百千の怒馬陣を           じん  衝くが如く、或は数仭の雪山前に崩るるが如し。  他の舟船は皆既に逃れて一もある無し。其の帆を       してい  張ること至低三尺強。而て其の怒馬に乗り、其の                    雪山を踏み、以て直前勇往すること、箭の馳する                     わにづ  如きものは、只だ是れ吾が一舟のみ。忽ち鰐津に                       くわい  到る。嘗て聞く、鰐津は平曰風無き時と錐も、回  えんらんせん     はんくわこくてん きよこうたいりん  淵藍染、而て盤渦谷転、巨口大鱗の游泳出没する                   ふうはしんげき  所、乃ち湖中の至険なりと。而も況や風波震激の      とま  時をや。篷を推して水面を見れば、則ち謂はゆる                     はいふう  地裂け天開くの勢を為せり。寄なるかな、颶風忽            きし    はんふくへうり きはう  ち南北両面より吹いて軌る。故に帆腹表裏饑飽定  まらず。是を以て舟進んで又た退き、退いて又た             あが  進む、右に傾けば則ち左昂り、左に傾けば則ち右     をど          ひまつしゆんせん とま  昂り、踊るが如く舞ふが如く、飛沫峻濺、篷に入   ゆか         とき  り牀を侵す、実に至危の秋なり。舟子呼んで曰く、                  「他の舟は皆幾を知る、故に之を避く、其の如き  は独り誤つて前知する能はず、而て乃ち此に至る、  あゝ  吁、命なるかな、然りと雖も面目の客に対するな  きのみ」と。吾れ其の言意を察するに、共に魚腹  に葬らるるの患を免れざるに似たり。因つて却て      い ゆ      なんじ     こゝ  舟子を慰喩して曰く、「爾誤つて此に至るは命な  り、則ち吾が輩の此に至るも亦た命なり、倶に之  を如何ともする無し、只だ天に任さんのみ、何ぞ  患ふるに足らんや」と。門生家童既に悪酒に酔ふ         くら         ふくでき  如く、頭痛み眼眩み、其の心覆溺を慮るものの如  し。予と雖も実に以て死と為せり、故に憂悔危懼  の念を起さざるを得ず。是の時忽ち藤樹書院に於                      おも  て作る所の、「人此の知を致す無き」の句を憶ひ、  心口相語つて曰く、此れ即ち其の良知を致さざる       の人を責むるなり、而も我れは則ち憂悔危懼の念  を起す、もし自から之を責めずんば則ち躬を待つ                       じよ  こと薄うして、而て人を責むること却て厚し、恕                ま   い  にあらざるなり、平生学ぶ所将た何づくに在ると。  直ちに良知を呼び起す、則ち伊川先生の誠敬を存                       へう  するの言、亦た一時に并起し来る。因つて其の飄  どう    けん  動中に堅坐す、乃ち伊川・陽明の二先生に対する       如し。主一無適、我れの我れたるを忘る、何ぞ況   きやうらんげきらう            か  や狂瀾逆浪をや、敢て心に挂けず、故に憂悔危懼  の念、湯の雪に赴く如く、立どころに消滅して痕         ぎようねん         はいふう  無し。此れより凝然として動かず、而て颶風も亦  た自から止み、柔風依然として舟を送る。終に坂  本の西岸に著く。此れ豈天にあらざらんや。時に       夜既に二更なり。門生家僮皆回生の思を為し、以  て互に恙無きを賀す。遂に坂本に宿す。明早天晴            めい  る。天台山に登り、四明の最高を尽くす。而て俯                   ちうせきけいれき  して東北を視れば、則ち乃ち湖なり。疇昔経歴せ      しけん               ゑんじ  し所の至険、皆眼中に入る。風浪静かにして遠邇  ほが               てん えんし  朗らかに、実に一大円鏡なり。漁舟点点黶子の如  く、帆檣数千、東去西来し、平地より易し、危懼  すべきもの無きに似たり。是に於て門生余に謂ひ              そも/\      て曰く、「昨の憂悔危懼は抑夢か、亦た天の吾が    けん  師を譴するや」と。余曰く、「否、夢にあらずし        てんけん  て真境なり。天譴にあらずして我れを金玉にする            へん  なり。何となれば其の変に逢ふにあらざれば、則             うかが       いづく  ち焉んぞ真良知真誠敬を窺ひ得んや。又た焉んぞ  真に伊川・陽明の両先生に対するを得んや。故に  曰く、真鏡にして夢にあらざるなり。我れを金玉           けん  にするものにして天譴にあらざるなり。然らば則                けんはい  ち福にして禍にあらざるなり。賢輩も亦た徒に憂  悔危懼の事を追思することなくして可なり。身心             なん      か  に益なきなり。且つ賢輩盍ぞ復た夫の城邑を視ざ         じやうくてい   ほうくわぎてつ  るや。其の亦た杖底に在りて蜂窩蟻垤の如きも  のは、富貴貧賤の同じく棲む所なり。故に我れ則           きよう  ち却て魯を小とするの興を得、心広くして身裕な     ひろ  り。眼豁くして脚軽し。賢輩も亦た宜しく共に是  の興味を同じくすべしと。」是に於て又た詩を賦           めい     つく  す、詩に曰く、「四明独り湖東を尽すのみならず。  にしらく   なが            ぢんけん  西洛城を眺むれば眼界空し。人家十万塵喧絶ゆ。  只だ一禽の冷風に歌ふを聴く」と、最高夏と雖も気           さい/\             さ し  秋末の如し 胸中益々灑灑然たり、一点の渣滓なき                       を覚ゆ。因つて謂ふ、吾が輩纔に其の境に即きて、                   ばうれう  良知を呼び起し、誠敬を存す、猶且つ至険を忘了  す。而て嶽に登り再び万死の処を顧みると雖も、     こりつ     たん/\いう/\  心寒股慄せず、而て湛湛悠悠、却て心に聖人と同  じきの興を得たり。而るを況んや、伊川先生の如            てつ  く昼夜を通じ、語黙を徹し、誠敬を存すれば則ち                     てん  其の堯舜の事と雖も、只だ是れ太虚中一点の浮雲  日を過ぐるが如しと謂ふは、実見にして虚論にあ  らざること、断じて知るべし。適々先生の州の  水厄を記するに因つて、遂に又た余の湖上の事に          こげん  及ぶ。此れ比して誇言するにあらざるなり。只だ  人をして良知を致すは、即ち是れ誠敬たり、誠敬            せう/\ぜん  を存すれば、則ち良知照照然として日月の如く、        初めより二致なきを知らしめんと欲するなり。故                       はく  に詳述して以て同志に告ぐ。従ふ所の門人は、白   り  しようせいし  履・松誠之なり。



壬辰。天保三
年。


小川村。湖西
の高島村に在り、
藤樹書院存す。

姚江。王陽明
の生地、前出。旧い祖
先を合祀せる廟
をといふ、其
を守るものの如
く虔しみ事へる。

流滅云々。七
絶の結句なり。
余風が滅びて、
藤樹先生がなさ
れたやうに、陽
明学の主眼致良
知の学を実行す
る者がない。

大溝。分部侯
の藩地、書院は
其より西北数里
の処。


。帆をかけ
る木、其に帆を
結ぶ。

未申。ひつじ、
さる、午後二時
から四時の間。

小松。地名。












鰐津。地名。










颶風。はやて。

帆腹云々。風
が両方から吹き、
帆腹が表に張り
忽ち裏に張る、
張るを飽といひ、
凹むを饑といふ。


















































主一無適。朱
子学の標的を居
敬窮理といふ、
敬とは何ぞ、朱
子之を解して主
一無適即ち一を
主として他に適
かぬ心の状態を
いふと、厳粛緊
張の心態なり。


二更。夜の十
時頃。

天台山。支那
浙江省台州にある
山の名、仏教
の霊地、我が伝
教大師、此山の
智者大師より法
を伝へ帰り、天
台州を比叡山に
始む。故に比叡
山を別名天台山
といひ、其の最
高峯を四明嶽と
いふ、又彼に取
る。

黶子。黒痣、
ホクロ。

天譴。天の叱
り、譴責。












賢輩。諸賢等
といふに同じ。




蜂窩蟻垤。蜂
の巣、蟻の垤(あ
りづか)家屋の
櫛比せる形容
す。

魯を小、孟子
に孔子が魯の東
山に登つて魯を
小なりとし、泰
山に登つて天下
を小にしたりと
あり、京都即ち
洛城を小視した
ることをいふ。



湛々悠々。湛
々は、水の深き
に取り、静かな
形容、悠々は、
のんびり。

昼夜。死生は
昼夜の如しとは
程子の語なり、
昼夜を通ずとは、
死生を一視する
なり。

語黙。徹は通
なり、語と黙と
を超脱して太虚
の霊即ち誠敬一
つになるをいふ。

堯舜の事云々。
堯舜の事を太虚
中一点の浮雲と
観るは、前述の
魯を小とし、又
た洛城を蜂窩蟻
垤と見ると考へ
合すべし。

比。較べ並べ
る意。
二致。致は理
致の致、おもむ
き。
白履は白井履、
松誠之は松浦誠
之、皆高弟。


石崎東国『大塩平八郎伝』 その53


『洗心洞箚記』(本文)目次/その251/その253

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