一〇三 (つづき)
● かんいつ なには ふし
壬辰の夏六月、予閑逸無事を以て、浪華を発し伏
み ゆ うか
水に至り、而て江州に之き、湖に泛んで以て中江
ゐせき ● せいかうひ
藤樹先生の遺跡を小川村に訪ふ。小川村は西江比
らだけ ● かいそう
良嶽の北に在り。先生は我が姚江の開宗なり。其
お むね
の墓に謁し、其の容儀道徳を想像し、涙墜ちて臆
うるほ
を沾す。其の書院存すと雖も、而も今先生の学を
べうえい
講ずる者なし。其の門人の苗裔医を業とする者、
かんしゆ ●しゆてふ こゝ
乃ち之を監守す、守の如く然り。予是に於て詩
ゐんはん つ
を賦す、詩に曰く、「院畔の古藤花尽くる時。湖
うか せきけん
に泛んで来り拝す昔賢の碑。余風比良の雪に似た
●りうめつ き
るあり。流滅して人の此の知を致す無し」と、帰
●おほみぞ
時大溝港口に於て復た舟を買ふ。予従ふ所の門生
どう
及び家僮と四人のみ、更に同舟の人無し。再び湖
に泛び、南して坂本に向ひ、将に吾が郷に還らん
とす。而て大溝より坂本に至る、水程凡そ八里ば
いてふ
かり。此れ即ち我邦の里数にして、異朝の里数に
非ざるなり。異朝の里数に当つれば、則ち六十八
ともづな ●せう ●ひつじさる
九里なり。纜を解きを結ぶ、既に未申の際なり。
さつ/\ ●
而て日晴れ浪静かに、柔風只だ颯々たるのみ。小
松の近傍に至る、北風勃起し、湖を囲むの四山各々
きやうらんげきらう
声を飛ばし、而て狂瀾逆浪、或は百千の怒馬陣を
じん
衝くが如く、或は数仭の雪山前に崩るるが如し。
他の舟船は皆既に逃れて一もある無し。其の帆を
してい
張ること至低三尺強。而て其の怒馬に乗り、其の
ふ や
雪山を踏み、以て直前勇往すること、箭の馳する
●わにづ
如きものは、只だ是れ吾が一舟のみ。忽ち鰐津に
くわい
到る。嘗て聞く、鰐津は平曰風無き時と錐も、回
えんらんせん はんくわこくてん きよこうたいりん
淵藍染、而て盤渦谷転、巨口大鱗の游泳出没する
ふうはしんげき
所、乃ち湖中の至険なりと。而も況や風波震激の
とま
時をや。篷を推して水面を見れば、則ち謂はゆる
●はいふう
地裂け天開くの勢を為せり。寄なるかな、颶風忽
きし ●はんふくへうり きはう
ち南北両面より吹いて軌る。故に帆腹表裏饑飽定
まらず。是を以て舟進んで又た退き、退いて又た
あが
進む、右に傾けば則ち左昂り、左に傾けば則ち右
をど ひまつしゆんせん とま
昂り、踊るが如く舞ふが如く、飛沫峻濺、篷に入
ゆか とき
り牀を侵す、実に至危の秋なり。舟子呼んで曰く、
き さ
「他の舟は皆幾を知る、故に之を避く、其の如き
は独り誤つて前知する能はず、而て乃ち此に至る、
あゝ
吁、命なるかな、然りと雖も面目の客に対するな
きのみ」と。吾れ其の言意を察するに、共に魚腹
に葬らるるの患を免れざるに似たり。因つて却て
い ゆ なんじ こゝ
舟子を慰喩して曰く、「爾誤つて此に至るは命な
り、則ち吾が輩の此に至るも亦た命なり、倶に之
を如何ともする無し、只だ天に任さんのみ、何ぞ
患ふるに足らんや」と。門生家童既に悪酒に酔ふ
くら ふくでき
如く、頭痛み眼眩み、其の心覆溺を慮るものの如
し。予と雖も実に以て死と為せり、故に憂悔危懼
の念を起さざるを得ず。是の時忽ち藤樹書院に於
おも
て作る所の、「人此の知を致す無き」の句を憶ひ、
心口相語つて曰く、此れ即ち其の良知を致さざる
せ
の人を責むるなり、而も我れは則ち憂悔危懼の念
を起す、もし自から之を責めずんば則ち躬を待つ
じよ
こと薄うして、而て人を責むること却て厚し、恕
ま い
にあらざるなり、平生学ぶ所将た何づくに在ると。
直ちに良知を呼び起す、則ち伊川先生の誠敬を存
へう
するの言、亦た一時に并起し来る。因つて其の飄
どう けん
動中に堅坐す、乃ち伊川・陽明の二先生に対する
●
如し。主一無適、我れの我れたるを忘る、何ぞ況
きやうらんげきらう か
や狂瀾逆浪をや、敢て心に挂けず、故に憂悔危懼
の念、湯の雪に赴く如く、立どころに消滅して痕
ぎようねん はいふう
無し。此れより凝然として動かず、而て颶風も亦
た自から止み、柔風依然として舟を送る。終に坂
本の西岸に著く。此れ豈天にあらざらんや。時に
●
夜既に二更なり。門生家僮皆回生の思を為し、以
て互に恙無きを賀す。遂に坂本に宿す。明早天晴
● めい
る。天台山に登り、四明の最高を尽くす。而て俯
ちうせきけいれき
して東北を視れば、則ち乃ち湖なり。疇昔経歴せ
しけん ゑんじ
し所の至険、皆眼中に入る。風浪静かにして遠邇
ほが てん ●えんし
朗らかに、実に一大円鏡なり。漁舟点点黶子の如
く、帆檣数千、東去西来し、平地より易し、危懼
すべきもの無きに似たり。是に於て門生余に謂ひ
そも/\ ●
て曰く、「昨の憂悔危懼は抑夢か、亦た天の吾が
けん
師を譴するや」と。余曰く、「否、夢にあらずし
てんけん
て真境なり。天譴にあらずして我れを金玉にする
へん
なり。何となれば其の変に逢ふにあらざれば、則
うかが いづく
ち焉んぞ真良知真誠敬を窺ひ得んや。又た焉んぞ
真に伊川・陽明の両先生に対するを得んや。故に
曰く、真鏡にして夢にあらざるなり。我れを金玉
けん
にするものにして天譴にあらざるなり。然らば則
●けんはい
ち福にして禍にあらざるなり。賢輩も亦た徒に憂
悔危懼の事を追思することなくして可なり。身心
なん か
に益なきなり。且つ賢輩盍ぞ復た夫の城邑を視ざ
じやうくてい ●ほうくわぎてつ
るや。其の亦た杖底に在りて蜂窩蟻垤の如きも
のは、富貴貧賤の同じく棲む所なり。故に我れ則
●ろ きよう
ち却て魯を小とするの興を得、心広くして身裕な
ひろ
り。眼豁くして脚軽し。賢輩も亦た宜しく共に是
の興味を同じくすべしと。」是に於て又た詩を賦
めい つく
す、詩に曰く、「四明独り湖東を尽すのみならず。
にしらく なが ぢんけん
西洛城を眺むれば眼界空し。人家十万塵喧絶ゆ。
只だ一禽の冷風に歌ふを聴く」と、最高夏と雖も気
さい/\ さ し
秋末の如し 胸中益々灑灑然たり、一点の渣滓なき
つ
を覚ゆ。因つて謂ふ、吾が輩纔に其の境に即きて、
ばうれう
良知を呼び起し、誠敬を存す、猶且つ至険を忘了
す。而て嶽に登り再び万死の処を顧みると雖も、
こりつ ●たん/\いう/\
心寒股慄せず、而て湛湛悠悠、却て心に聖人と同
じきの興を得たり。而るを況んや、伊川先生の如
● ● てつ
く昼夜を通じ、語黙を徹し、誠敬を存すれば則ち
● てん
其の堯舜の事と雖も、只だ是れ太虚中一点の浮雲
日を過ぐるが如しと謂ふは、実見にして虚論にあ
らざること、断じて知るべし。適々先生の州の
水厄を記するに因つて、遂に又た余の湖上の事に
● こげん
及ぶ。此れ比して誇言するにあらざるなり。只だ
人をして良知を致すは、即ち是れ誠敬たり、誠敬
せう/\ぜん
を存すれば、則ち良知照照然として日月の如く、
● ち
初めより二致なきを知らしめんと欲するなり。故
●はく
に詳述して以て同志に告ぐ。従ふ所の門人は、白
り しようせいし
履・松誠之なり。
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●壬辰。天保三
年。
●小川村。湖西
の高島村に在り、
藤樹書院存す。
●姚江。王陽明
の生地、前出。
●守。旧い祖
先を合祀せる廟
をといふ、其
を守るものの如
く虔しみ事へる。
●流滅云々。七
絶の結句なり。
余風が滅びて、
藤樹先生がなさ
れたやうに、陽
明学の主眼致良
知の学を実行す
る者がない。
●大溝。分部侯
の藩地、書院は
其より西北数里
の処。
●。帆をかけ
る木、其に帆を
結ぶ。
●未申。ひつじ、
さる、午後二時
から四時の間。
●小松。地名。
●鰐津。地名。
●颶風。はやて。
●帆腹云々。風
が両方から吹き、
帆腹が表に張り
忽ち裏に張る、
張るを飽といひ、
凹むを饑といふ。
●主一無適。朱
子学の標的を居
敬窮理といふ、
敬とは何ぞ、朱
子之を解して主
一無適即ち一を
主として他に適
かぬ心の状態を
いふと、厳粛緊
張の心態なり。
●二更。夜の十
時頃。
●天台山。支那
浙江省台州にある
山の名、仏教
の霊地、我が伝
教大師、此山の
智者大師より法
を伝へ帰り、天
台州を比叡山に
始む。故に比叡
山を別名天台山
といひ、其の最
高峯を四明嶽と
いふ、又彼に取
る。
●黶子。黒痣、
ホクロ。
●天譴。天の叱
り、譴責。
●賢輩。諸賢等
といふに同じ。
●蜂窩蟻垤。蜂
の巣、蟻の垤(あ
りづか)家屋の
櫛比せる形容
す。
●魯を小、孟子
に孔子が魯の東
山に登つて魯を
小なりとし、泰
山に登つて天下
を小にしたりと
あり、京都即ち
洛城を小視した
ることをいふ。
●湛々悠々。湛
々は、水の深き
に取り、静かな
形容、悠々は、
のんびり。
●昼夜。死生は
昼夜の如しとは
程子の語なり、
昼夜を通ずとは、
死生を一視する
なり。
●語黙。徹は通
なり、語と黙と
を超脱して太虚
の霊即ち誠敬一
つになるをいふ。
●堯舜の事云々。
堯舜の事を太虚
中一点の浮雲と
観るは、前述の
魯を小とし、又
た洛城を蜂窩蟻
垤と見ると考へ
合すべし。
●比。較べ並べ
る意。
●二致。致は理
致の致、おもむ
き。
●白履は白井履、
松誠之は松浦誠
之、皆高弟。
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