山田準『洗心洞箚記』(本文)282 Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.1.24

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『洗心洞箚記』 (本文)

その282

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

下 巻訳者註

                     いつ 一三〇 朱子曰く、「臣子は身を愛して自から佚す                      たゞ  るの理無し」と。又た曰く「事を論ずるには、祇  まさ                 り がい  はか  当に其の理の是非を言ふべし、其の事の利害を計                  まさ      し し  るべからず」と。又た曰く「学者は当に常に志士  こうがく           ねん  溝壑に在るを忘れざるを以て念と為すべし、則ち    おも         けいかう     ねんかる  道義重くして、而て死生を計較するの念軽し」と。          せう/\       あ      すなは すうひ  又た曰く「今人は小小の利害に遇へば、便ち趨避  けいかう         たうきよ        ていくわく  計較の心を生ず。古人は刀鋸前に在り、鼎後に            もの  在るも、之を視ること物なきが如きものは、只だ   こ        み え     か            這の道理を見得て、那の刀鋸鼎を見ざるに縁る」  と。謹んで按ずるに、右の四條の云ふ所は、是れ    ぶんこう  みづ  びやくろどうけいじ  即ち文公が自から白鹿洞掲示の、其の道を明かに           おしへ じつせん  して其の義を正すの訓を実践せしの事なり。而て    せんし     しよくくわう  其の筮仕より、以て属絋に至るまで、五十年間、     れきし            かう  四朝に歴仕し、外に仕ふる者、僅に九考、朝に立                       いつ  つ者四十日のみ。此れ豈臣子が身を愛し自から佚     り      じつせん         けいごく ていてん  する理なきの実践にあらずや。江西の刑獄を提点      はや     そう         やう  するや、促く事を奏せんとす、之を路に要して、            いと        いまし  正心誠意は上の聞くを厭ふ所たるを以て、戒むる                    こた  に言ふこと勿きを以てするものあり。文公答へて              たゞ       あへ  曰く、吾れ平生学ぶ所は、止此の四字のみ、敢て くわいご      あざむ            回互して吾が君を欺かんやと。此れ豈其の理を言         はか  うて其の利害を計らざるの真修にあらずや。文公  いへまづ       しよせい  とほ        とうはんれいかう  家貧し、故に諸生の遠きより至る者は、豆飯藜羹、  おほむ    とも      おう/\  しようたい        よう  率ね之と共にし、往往人より称貸して、以て用を  きふ                かい  給するも、其の道義にあらざれば、一介も取らず。    こうがく  是れ溝壑に在るを忘れざるを以て念と為すにあら      たれ  あんじよ           かん   ずんば、孰か晏如として之を能くせんや。奸人胡  くわう ちんか    じしやう  むね こひねが  ふんきぐんこう  紘、陳賈等、時相の旨を希ひ、紛起羣攻し、道学    し      ぎがく        ぎやくたう  を誣ふるに偽学を以てし、又以て逆党と為して之      せうゆ  を天下に詔諭す。故に道草を攻むる者日に急なり。 せん  よ それがし  選人余某といふ者、上書して文公を斬らんと乞ふ。  しか                  み え  而も文公は学を講じて休まず、是れ道理を見得て、   か  たうきよていくわく            たれ  ゆう  那の刀鋸鼎を見ざるものにあらずんば、孰か裕  じよ         を  如として之に処らんや。是れに由つて之を観れば、            かみ  ふる  則ち文公の志気百世の上に振ひて、而て百世の下   こうき  を興起すと謂ふべし。もし又た其の書を読みて其  の道を学び、斯の苦節に堪ふる能はざる者は、豈  しそんししやく       むべ     せつ  師尊私淑すと云はんや。宜なるかな、薛文清公曰       ぼつ         よ          ぶん  く、「朱子没してより、而て道の寄る所、言語文   じ      す  辞の間を越ぎず、能く文辞に因つて朱子の心を得        きよろさい           たる学者は、許魯斎一人のみ」と。是れ知言なり。   朱子曰、「臣子無身自佚之理、」又曰、   「論事、祇当其理之是非、不其   事之利害、」又曰、「学者当常以志士不   在溝壑念、則道義重、而計較死生之念   軽矣、」又曰、「今人遇小小之利害、便生   趨避計較之心、古人刀鋸在前、鼎後、   視之如物者、只縁得這道理、不   那刀鋸鼎、」謹按、右四條所云、是即文公   自実践白鹿洞掲示明其道其義之訓之事、   而自其筮仕、以至属絋、五十年間、歴仕   四朝、仕於外者、僅九考、立於朝者四十   日而已、此豈非臣子無身自佚之理之実践   乎、提点江西刑獄、促奏事、有之於路、   以正心誠意為上所聞、戒以言者、   文公答曰、吾平生所学、止此四字、敢回互而   欺吾君乎、此豈非其理而不其利害   之真修乎、文公家貧、故諸生自遠至者、豆飯   藜羹、率与之共、往往称貸於人、以給用、   非其道義、一介不取、是非溝   壑念、孰晏如能之哉、奸人胡紘陳賈等希   時相旨、紛起羣攻、誣道学偽学、又以   為逆党、詔諭之天下、故攻道学者日急、   選人余某者、上書乞文公、而文公講学   不休、是非得道理、不那刀鋸鼎   者、孰裕如処之哉、由是観之、則可   文公之志気振乎百世之上、而興起於百世之   下矣、如又読其書而学其道、不   斯苦節者、豈師尊私淑焉云乎哉、宜乎、薛文   清公曰、「自朱子没、而道之所寄、不   乎言語文辞之間、能因文辞而得朱子之心   学者、許魯斎一人而已、」是知言也、



佚。逸なり.
安楽。




孟子滕文公下
篇に「志士溝壑
に在るを忘れ
ず」とあり。




刀鋸云々。刀
鋸は生を絶ち、
鼎は身を烹る
刑具。


朱文公(熹)
は廬山下の白鹿
洞書院に教授し、
洞規を掲ぐ、先
づ五倫を掲げ。
董仲舒の「其義
を正して其利を
計らず」の語に
及ぶ。
筮仕。仕官。
属絋。死歿。
四朝。宋の高
宗、孝宗、光宗、
寧宗の四帝。
九考。書経堯
典に「三歳績を
考す」とあり、
考はしらべるこ
と、九老は三歳
を九度すること。

提点。しらべ
る。
正心誠意。大
学八條目の二つ。

回互。変改。



称貸。他より
金銭を借る。





胡紘。字は応
期、紹煕中秘書
郎となる、時相
韓冑に用ひら
れ、朱子を詆つ
て偽学の罪首と
なす。是れに由
つて学禁益々急
となる。陳賈も
同代の人。道学
を擯斥せんこと
を乞ふ。

選人は考科の
試験に及第せし
者、余とは余嘉
を指す。新州に
教授たり、上書
して晦菴を斬ら
んと乞ふ。




薛文清公。明
の薛前出許魯斎。元の
許衡、前出知言。道理に
叶つた言。


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