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中斎、前きに退職を志せしも、奉行に懇留せられて果さず、遂に重用
せられて幾多の功績を挙げた。盛名の下、永く処る可らざるを感知せし
や否や、偶奉行高井山城守、年七十になりなんとするを以て、退官を当
路に乞ふた。中斎、之を聞いて慨然として、時機至れりとなし、退職を
要請して許され、因て養子格之助に与力の職を譲つて隠居した。此が天
保元年三十八歳であつた。此時自ら連斎と号した、其は周の戦国に当り、
魯仲連が秦を帝とすることを肯ぜざりし高節に取つたのである。中斎又
た退職の日、招隠の詩を賦した。序文に委しく奉行山城守の下に於ける
自己の努力を叙した後、其詩に云ふ、
テ ナリ タリ ニ
昨夜閑窓夢始静。今朝心地似 僊家 。
カ ラン ダ シカ ノ ノ
誰知未 乏素交者。秋菊東籬潔白花
中斎は初て閑雲野鶴の境に就いた。縦令天下に知己なきも、尚東籬に
素交を契るべき潔白の菊花ありとの意を歌うて高風を寄せた、是が天保
元年、三十八歳の七月であつた。然かし中斎の一身はなか/\閑静其物
ではなかつた。其の九月には、頼山陽に請うて日本外史の写本一部を獲、
之に報ゆるに月山作の九寸有余の短刀を貽つた。山陽は七言古詩の長篇
シ タリ ノ
を作つて、之を謝したが、其起頭に「吾書三十余万字。博得君家両尺鉄」
の句がある、山陽の得意、想ふべきである。十月には中斎は早くも名古
屋に宗家を訪うて旧情を叙し、又た先慕に謁した。此時山陽は「大塩子
起の尾張に適くを送る序」と題して、六百五十余字の有名な序文を贈つ
た。此は洗心洞箚記の下巻に載つて居る。硬骨な山陽は、忌憚なく政弊
時弊を説破した、然るに中斎は之を発表する時、却て幕府に遠慮して肝
要の部は伏字にして抹殺したので、箚記を読む者は常に之を遺憾とした
が。然るに今は伊勢山田の足代弘訓の手に伝はつた全文が世に出で、
「日本陽明学派之哲学」などに収められて居るので、読者を満足せしめ
た。其文は先づ当時の弊根を叙べて、子起の大手腕を称揚し、吾れ甞て
其の精明を過用して、鋭進折れ易きを戒めたが、其勇退に遇ひ、喜び禁
ユゴテ ホダシ
ぜず。今や を脱した鷹、 を卸した馬の如く、其の俊気健力を余まし
て自ら空を撃ち、野に騁せば、快、如何ばかりぞ。再び に就き に就
くなからんことを預嘱すと、さも親切に忠告した。然り、子起は遂に
と とには就かなかつたが、自ら進んで風雲を捲起した。其は山陽と学
問の立場が違ふから是非も無い。左に山陽の原文を掲ぐ。
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石崎東国
『大塩平八郎伝』
その43
貽(おく)つた
石崎東国
『大塩平八郎伝』
その44
『洗心洞箚記』(抄)
その35
騁(は)せば
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