「致良知」は陽明王子教説の三字符である、良知の外に知なく、致良
知の外に学なしとさへ謂ふて居る。王子が幾度か朱子学の格物窮理の説
に困惑し、五溺を経たる後、龍場の一悟に「聖人の道は吾性に具足す、
前きに理を外物に求めしは、過てり」と悟るに至らしめ、其れから「心
即理」の宣明となつた。然るに心は理であるも、常人は私欲が之を蔽ふ
て居る、故に「人欲を去り天理を存せよ」と教へた。而かも天理の言、
茫として把握に乏しく、教言として一段の親切を欠いで居るのを憾みと
したが、江右討賊の大任に当り、苦艱を重ね、実渉に徴し、茲に「致良
知」の発明宣言となつた。良知は宇宙の精霊にして、我に在つては天植
の霊根心法の大軌矩にして、孟子の謂はゆる「是非の心」是である。而
して学問は人欲を去り、良知の体を全うして、良知のまゝ拡充到底する
に在り。拡充到底は即ち「致」の謂にして、大学の「致知」は是である。
故に「 致良知」は人の人たる所以を学ぶなり、此の外に学なしと云ふの
である。
ハ ハ ス リ
王子曰ふ「知是理之霊処」と、又曰ふ「知是心之本体。心自然会知。
チ
見父自然知孝。見兄自然知弟。見孺子入井。自然知惻隠。此便
クバ
是良知。良知之発。更無私意障礙。即所謂充惻隠之心。而仁不可
キ
勝用矣。然在常人。不能無私意障礙。所以須用致知格物之功
勝私復理。即心之良知更無障礙。得以充塞流行。是致其知。
知至則意誠」と。王子の「致良知」の真義は、斯く説かれて居る。次に
中斎の所説を窺はん。
中斎の恒言に依れば、良知は天地の徳が各自方寸の中に宿れるなり。
然れども人欲が其の方寸を蔽へば、良知は為めに其光明を失ひ、流行を
妨げらる。若し人欲を打払ひ、良知の体を全うせば、聖賢となり、仁者
となるのである。弟子の質疑に答ふる書に此意を述べて云ふ、
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只幸とする所は、天地の徳性方寸の虚に舎る、故に其独りを慎んで、
其虚を塞がざれば、則ち徳性の一知乃ち大君となり、四知(知覚、聞
見、情識、意見)を使用し、以て祟りをなさざらしむ。是を聖賢とい
ふ、是を君子といふ、是を仁者知者といふ。
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