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洗心洞箚記は、中斎学説の総莞庫である。天保二年、中斎三九歳、始
て閑境に処り、講学著書に専念することを得た。先づ古本大学刮目てふ
一書を編し、又之と前後して随時の感想所得を筆録して洗心洞箚記と名
づけた。門人が古本大学刮目を公刊せんことを請ふに当り、之を辞拒し
て箚記の刊行を許した。吾人は先づ其の自序を窺ふを要す。
余職を辞して家居し、静閑事無し。復た嘗て読みし所の古本大学を取
つて之を講究し、粗ぼ其の誠意致知の一斑を窺ひ得て、微しく旧説に
異なるを覚ふ。このごろ竊に儒先の説を輯録して是の経を釈し、因て
名つけて古本大学刮目と曰ふ。秘して敢て我社の子弟に伝へず、況や
他人をや。然るに編摩の労に与かりし者、請うて曰ふ、之を剞に付
して、世の同志に恵まば、幸甚しと。余乃ち辞して曰ふ、何ぞ敢てせ
ん、何ぞ敢てせん。夫れ自ら経を註するは固より難し、諸説を折衷し
て之を釈するは尤も難し。明鑒博雅の君子に非ざるよりは、必遺漏贅
疣の誤あり。(中略)昔し伊川程子は、其の中庸自註を火けり。朱子
は、其の死前三日、猶改本大学の誠意章を改めたり。而て陽明先生、
嘗て五経臆説を著はすも、今世に伝はるもの其の十三條と自叙と僅に
之を遺文中に見るのみ、其の全文の如きは、先生既に自ら秦火に付す
と謂へり。経を註するの難き、大賢に在つて猶此の如し、況や吾輩諸
説を折衷して之を釈するをや。故に何ぞ敢て剞に付せん、斯学に志
あるもの写して以て閲して可なり。猶已むなくば、其れ唯箚記か。余
が箚記は目の触るゝ所心の得る所ある毎に之を筆して自ら警め、又子
弟の憤を発するを助けんとなり、故に之を梓に上するとも、家塾に
蔵して世に公にせずば、安ぞ許さゞるを得んやと。門人曰く、命に従
はん、然れども将来若し世に漏れ出でなば、百毀千謗、必ず彼の書よ
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り甚しからん。何とならば、先生の学を論ずるや人情に協はざるもの
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五つあり。一に曰ふ。太虚、二に曰ふ、致良知、三に曰ふ、気質を変
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化す、四に曰ふ、死生を一にす、五に曰ふ、虚偽を去る。夫れ太虚は
釈老に似る、致良知は朱学に敵す、気質変化は、客気勝心者の難んず
る所、死生を一にするは、凡庸怯惰輩の忌む所、而して虚偽は中人以
下、無始の妄縁、其の血肉、間に和せざるもの少し、故に一として
其意に逆はざるはなし、世の悪みを免れんと欲するも得んや、先生宜
しく三思せらるべしと。余対へて曰く、誠に然り、誠に然り、而かも
子等、此の五者を以て先賢の成語と為すか、又た我れの創説と謂ふか。
我の創説ならば、宜しく後の如き慮りあるべし、先賢の成語にして、
吾れ特に之を発揮するのみならば、又何ぞ患ふるに足らんや。況や此
れ刮目の、一経を釈する如きの比に非ず、是を以て経を賊ふと、儒先
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解経の累を貽すとの罪あらず、要するに一家言のみ。故に百毀千謗、
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我れに萃るも、亦何ぞ避けん、必ず我れに益する者あらん、世の我に
教ゆる良師友は、其の百毀千謗より過ぐるはなし、子等、之を梓して
可なりと。是に於て我社の二三子、資を捐て、之を家塾に刻す、因て
簡端に題して、其の彼れを舎て、此れを梓せし所以の由を説く。而し
て巻は上下二編に分てり。天保癸巳 四年 夏四月大塩後素洗心洞 人
無き処に書す。
右は箚記成立の由来と、其の梓行の縁由とを知得すべし、そして其文
中に門人の口を借りて言はしめたる、先生学を論じ、人情に協はざるの
五項は、実に中斎学説の総綱を括るものである。而かも「虚偽を去る」
と「死生を一にす」とは普的道徳に属し、「気質を変化す」は朱子学
の套語である。さらば他の二項は先生学説の枢軸を為して居る。殊に
「太虚」は先生学問の根幹をなし、最も自得得力の処であるが、而かも
其は「致良知」より来るのである。さらば研究の順序として先づ「致良
知」より始める。
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石崎東国
『大塩平八郎伝』
その48
『洗心洞箚記』(抄)
その14
粗(ほ)ぼ
火(や)けり
貽(のこ)す
萃(あつま)る
捐(す)て
舎(す)て
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