Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.5.8

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩中斎』

その2

山田 準(1867−1952) 

北海出版社 1937 『日本教育家文庫 第34巻』 ◇

◇禁転載◇

前編 修学及吏職
 第一章 家系
管理人註
   

 大塩中斎は、寛政五年正月二十二日、大阪の天満川崎の四軒屋敷に生 れた。通称は平八郎、名は正高、後ち後素と改め。字は子起、連斎と号 し、後ち中斎に改め、其塾を洗心洞と謂ふた。後素及び子起は論語に取 り、連斎は魯仲連の義を慕ふに出で、洗心洞は易の繋辞に「洗心蔵於 密」とあるに取つた。父は平八郎敬高、母は某氏。其先祖波右衛門と いふもの、今川氏の一族にて、今川氏亡びて徳川家康に仕へ、徳川義直 の麾下に属し、尾張に移り、其季男、元名中大阪に出で、町奉行の与力 となり、代々其職を伝へた。元来大阪には東西の町奉行があり、其下に 与力三十騎、同心五十人が属した。奉行が警察署長ならば、与力は警部 で、同心は巡査である。然し実際は其より十数倍も権力があつた。そし て町奉行は幕命にて交替するが、与力同心は世襲であつて、与力は二百 石と五百坪の屋敷を貰ひ、天満と川崎とに居つた。中斎の家は世々東町                     ナガラ 奉行の与力にて、其屋敷は川崎にて、天満橋長柄町を東に入つた角から 二軒目の南側で、謂はゆる四軒屋敷の一つであつた。大塩家は段々伝へ て成之丞政余に至つたが、是が中斎の祖父である。政余は徳島藩の家老 稲田氏の真鍋市郎の二男に生れ、大塩家を継いだ人である。従来之と混 同して、中斎を阿波の人にして、大塩家に入つた如く説くは誤伝である。 父は敬高といふ、寛政十一年、未だ世を承けずして歿した。時に中斎は 七歳であつたが、翌年母氏又歿したので、中斎は全く孤となり、祖父母 に鞠はれた。





石崎東国
『大塩平八郎伝』
その3
 


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