大塩中斎は、寛政五年正月二十二日、大阪の天満川崎の四軒屋敷に生
れた。通称は平八郎、名は正高、後ち後素と改め。字は子起、連斎と号
し、後ち中斎に改め、其塾を洗心洞と謂ふた。後素及び子起は論語に取
り、連斎は魯仲連の義を慕ふに出で、洗心洞は易の繋辞に「洗心蔵於
密」とあるに取つた。父は平八郎敬高、母は某氏。其先祖波右衛門と
いふもの、今川氏の一族にて、今川氏亡びて徳川家康に仕へ、徳川義直
の麾下に属し、尾張に移り、其季男、元名中大阪に出で、町奉行の与力
となり、代々其職を伝へた。元来大阪には東西の町奉行があり、其下に
与力三十騎、同心五十人が属した。奉行が警察署長ならば、与力は警部
で、同心は巡査である。然し実際は其より十数倍も権力があつた。そし
て町奉行は幕命にて交替するが、与力同心は世襲であつて、与力は二百
石と五百坪の屋敷を貰ひ、天満と川崎とに居つた。中斎の家は世々東町
ナガラ
奉行の与力にて、其屋敷は川崎にて、天満橋長柄町を東に入つた角から
二軒目の南側で、謂はゆる四軒屋敷の一つであつた。大塩家は段々伝へ
て成之丞政余に至つたが、是が中斎の祖父である。政余は徳島藩の家老
稲田氏の真鍋市郎の二男に生れ、大塩家を継いだ人である。従来之と混
同して、中斎を阿波の人にして、大塩家に入つた如く説くは誤伝である。
父は敬高といふ、寛政十一年、未だ世を承けずして歿した。時に中斎は
七歳であつたが、翌年母氏又歿したので、中斎は全く孤となり、祖父母
に鞠はれた。
|