中斎幼時の師を、或は越智高洲 名翼 と云ひ、或は鈴木撫泉 名恕平
といふも、確かならず。中斎の門人田結庄千里の説に「先生八歳にして
篠崎応道 号は三島、小竹の父 の門に入りて句読を受く。天稟の頴才と
絶倫の精力とを併せて、十二三歳の頃、既に四書五経以下、経史の大義
に通ず」とあるは、信すべき如し。中斎十歳の時、人と争ひ、遂に之を
斬つた、祖父なる人、公庁を憚つて、表面之を遠ざけ、三年の後、養子
の体に装へて家に入れたとの説あるも、信ぜられぬ。中斎には江戸修学
の説があつて、林述斎に従ふて研修怠りなかりしやうに説き、或は十五
歳に係け、或は二十歳に係け、留学年数も、或は三年といひ、或は五年
といふが、皆確かでない。田結荘千里の話に云ふ「先生十三の時、慨然
として以為らく、男子苟も為すあらんと欲せば、宜しく江戸に遊び、広
く師友を求めざる可らずと。一夕窃に家を脱けて江戸に走る。旅僧あり、
江戸は少年勉学の地に非ずとて、之を止む、先生聞かず、旅僧携る所の
如意を執り、先生の頭を打つ、流血淋漓たり。先生大に感悟して、遂に
江戸行を止め、大阪に帰る」と、或は此事ありしならんか。
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