Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.5.9

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩中斎』

その3

山田 準(1867−1952) 

北海出版社 1937 『日本教育家文庫 第34巻』 ◇

◇禁転載◇

前編 修学及吏職
 第二章 幼時
管理人註
   

 中斎は、幼にして英智慧敏の資質を備へ、長ずるに随ひ、読書を好み、 武を嗜み、進歩太だ速であったと伝へられる。又た短慮過激の癖あり、 近隣の幼童を凌いだ。祖母之を患へて住吉明神に祈り、日参すること三 七日に及んだ。偶々祖母は古物商より古本大学外数本を買取つた。中斎、 之を見て、頻に教を乞ひければ、祖母、之に読方を授けた。中斎、之に 読み耽り、是より粗暴の遊戯息み、家人、安堵したりと。是ぞ先生の稟 賦性向を窺ふべく、又偶然買取つた大学が朱氏の新本大学にあらで、王 陽明の信奉する古本大学なりしことは、中斎が陽明学と不思議の宿縁が あつたとも云はれる。




石崎東国
『大塩平八郎伝』
その8
 第三章 修学  
   

 中斎幼時の師を、或は越智高洲 名翼 と云ひ、或は鈴木撫泉 名恕平 といふも、確かならず。中斎の門人田結庄千里の説に「先生八歳にして 篠崎応道 号は三島、小竹の父 の門に入りて句読を受く。天稟の頴才と 絶倫の精力とを併せて、十二三歳の頃、既に四書五経以下、経史の大義 に通ず」とあるは、信すべき如し。中斎十歳の時、人と争ひ、遂に之を 斬つた、祖父なる人、公庁を憚つて、表面之を遠ざけ、三年の後、養子 の体に装へて家に入れたとの説あるも、信ぜられぬ。中斎には江戸修学 の説があつて、林述斎に従ふて研修怠りなかりしやうに説き、或は十五 歳に係け、或は二十歳に係け、留学年数も、或は三年といひ、或は五年 といふが、皆確かでない。田結荘千里の話に云ふ「先生十三の時、慨然 として以為らく、男子苟も為すあらんと欲せば、宜しく江戸に遊び、広 く師友を求めざる可らずと。一夕窃に家を脱けて江戸に走る。旅僧あり、 江戸は少年勉学の地に非ずとて、之を止む、先生聞かず、旅僧携る所の 如意を執り、先生の頭を打つ、流血淋漓たり。先生大に感悟して、遂に 江戸行を止め、大阪に帰る」と、或は此事ありしならんか。


田結千里

石崎東国
『大塩平八郎伝』
その10
 


『大塩中斎』目次/その2/その4

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