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中斎と頼山陽との交情は、性格両々相反するが如くして、而かも意気
精神頗る相許す者があつた。天保三年四月、山陽は京都より洗心洞を訪
ひ、中斎は置酒之を饗した、其時の記に云ふ。
壬辰四月。山陽又下江訪余。觴酒之際。山陽謂余曰。兄之学問。
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洗心以内求。如襄者。外求以内儲。而作詩而属文。如相反然。
然請一見吾古本大学刮目之稿。故出之以示焉。読其綱領畢曰。
是非一家言。昔儒格言之府也。襄也雖不敏。請序之。余答曰。
他日煩之。而復以未刻之箚記若干條乃示焉。其読而過半。日既
暮矣。曰待上梓以評之。然今所一見之條々。於聖学之奥也。
無間然。深服太虚之説云。觴酒之際。其情綣、其果永訣之兆
歟。
右は四月なるが、九月に入り、中斎は、山陽が血を吐き病重しとの報
を獲、其の十三日を以て急遽往き問うたが、山陽は其日既に歿して居つ
た。年五十三。中斎、大哭して帰り、記して云ふ。
山陽之善属詩文洞通史事。詩客文人之所知。我則嘗為吏。且講
リ
陽明王子致良知之学者也。以世情視之。則如不与山陽相容然。
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然往来不断。送迎不絶何也。余善山陽者。不在其学。而窃取
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其有胆而識矣。而山陽有何所観以善我乎。吾初不識也。庚寅之
ク ニ
秋。余致仕後。如尾張宗家大塩氏。当其時。山陽製是序餞我之
行。其於人之難言時事。彼独能開口言之。而無有忌憚之情態。
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則豈非其胆之発見乎。戒余以不再就与、則亦可見其識之
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大略嗚呼傷哉嗚呼傷哉。今使山陽延命在。而尽箚記両巻。則不
益於彼。必益於我者葢亦不小矣。惟是余一生涯之遺憾也而已矣。
箚記附録抄
中斎、又た京師の友秋吉雲桂 有栖川宮の家士、医を業とす に復する
書中に云ふ。
つもり
山陽頼君、棄世、御互悲悼無彊。中略 高尾へ可遊積之処、嵐峡限
よど わけ
にて直にへ出帰舟仕候。訳者、山陽子、当四月下阪被訪、当秋者
九州地探勝同伴相約候処、今度之凶変実不存寄事に御座候。天下之
材五十有余にて帰泉、誠に可惜事に御座候、其念山水を仰で倏忽相
起、高雄者棄置帰候義に候、又出直し可申候間、其節緩々拝顔可申
候云々。(九月三十日)
両者の心契は真に凡情の思料を容さぬものがあつた。両者が九州地探
勝を約した事は珍らしい。中斎が山陽の事を思ひ出で、高尾を探らずに
帰阪せるなど美はしい限りである。性格は反するも、両者とも頂天立地
謂はゆるととを脱して機外に逍遥する処、真情相契つて其の然るを
知らざるものがあつたのであらう。
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石崎東国
『大塩平八郎伝』
その34
石崎東国
『大塩平八郎伝』
その54
倏忽
(しゅっこつ)
たちまち、
すみやか
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