中斎は、更に箚記一本を朝熊嶽山頂に燔て天照太神に告ぐる所あらん
お し ひろのり
としたが、是より先き伊勢山田の御師職をつとむる足代弘訓が大阪に遊
び、中斎を訪ふた、中斎は語るに前意を以てした。弘訓は神宮に豊宮崎、
林崎両文庫あることを説き、勧むるに奉納の事を以てした、中斎之を首
肯し、因て富士下山の後、参州吉田港に出で、渥美湾を航して山田に至
り、弘訓の家に寓し、箚記各一部を両文庫に納めた。
中斎は此機を以て両文庫の蔵書を拝観したが、両庫とも朱子文集、古
本大学、伝習録の三書なく、又た豊宮崎文庫には陸象山全集なく、林崎
文庫には王陽明全集なきを見て、之を奉納せんことを約し、八月九日、
大阪に帰り、約を践んで朱子文集、古本大学、伝習録を両文庫に、陸象
山全集を宮崎文庫に、王陽明文録抄を奉納した。毎書に中斎の跋文があ
る、後ち門人其跋を聚め、中斎の序を請うて一本となして、之を刻した、
「奉納書籍聚跋」が是である。其中朱子文集の跋が、最もよく奉納の旨
が述べられて居る。九月、右の奉納を宰領した門人が使命を終へて帰阪
した、中斎之を喜び、足代弘訓に謝状を贈つた、其中に言ふ、
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聖学之要者、此間申上候箚記之別跋にて御学可 被 下候。書籍も無
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之以前、神聖人之御心に尋候はゞ、後世儒者の申候なる事は無 之、
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簡易平坦のまゝ相覚候。此処看破致候は、言語文字の力にても無 之、
奇妙なるものと被 存候。只鄙人之所 望者、此世之人に誉且誹を受度
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とは更不 存、夫れ故太神宮へ奉し、富嶽の神へ献し。歿後に知己を
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待而已に御座候、この躯殻有 之て以来、人々異存有 之ように御座候。
希ふ所は此度の大変にて、人鬼夢覚め候て、七重鉄関撞破り、天の虚
明を御了得候はゞ、真の致知格物、於 世間万変 如 浮雲過 太虚 、
亦何の難きこと之れ有らん云々。(九月十日)
右は頗る中斎の心術信念が窺はれるのである。
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