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中斎は箚記の刻本が出来たので、各方面の儒家名士に贈つて批評を求
めた。然かし漫りには贈らないので、当時一本を獲るのも頗る難しとせ
られた。其中にも箚記の附録に収められた贈本の謝牘に左の名儒名士が
ある。
角田 簡 号九華、岡藩儒 斎藤 謙 号拙堂、津藩儒
牧園 豬 柳川藩儒 杉本祐憲 通称主税、御室宮家士
川北重憙 号温山、島原藩儒 大友 参 号遠霞、筑前人
吉村 晋 号秋陽、広島藩儒 浅井中倫 通称太一郎、中斎外舅
宇津木泰交 通称下総、彦根藩大夫
備中松山藩 後高梁 の山田方谷 天保四年二十九歳 は当時京都に遊学
して居たが、箚記一本を手に入れ、藩学有終館の学頭奥田楽山 名蕉蔵
に贈りて、左の書状を添へた。
今般洗心洞箚記なるもの差上候、則ち大塩老吏得意之作と相聞申候。
乍去平人には売与不仕、当国にも所司代奉行方へ差出候計、其外は
堂上へ少々差上候のみに御座候。去る手筋より一部手に入申候故、今
般差上候。当時にて先づ珍ら敷書に御座候。此書に付ては色々奇談も
御座候、追々御聞可被為成と奉存候。御覧被遊候はゞ、大夫方
並に館中諸子へ御覧に御入被成下候様奉希上候云々。( 十月二日)
寛政異学の禁以来、列藩多くは朱子学を厳守せるが、松山藩は必しも
然らず、方谷が平然箚記を館中諸子にまで勧めたるは、此間の消息を知
るに足らんか。
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石崎東国
『大塩平八郎伝』
その58
石崎東国
『大塩平八郎伝』
その61
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