Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.7.13

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩中斎』

その39

山田 準(1867−1952) 

北海出版社 1937 『日本教育家文庫 第34巻』 ◇

◇禁転載◇

中篇 学説及教法
 第十八章 洗心洞箚記と諸家
管理人註
   

 中斎は箚記の刻本が出来たので、各方面の儒家名士に贈つて批評を求 めた。然かし漫りには贈らないので、当時一本を獲るのも頗る難しとせ られた。其中にも箚記の附録に収められた贈本の謝牘に左の名儒名士が ある。  角田 簡 号九華、岡藩儒   斎藤 謙 号拙堂、津藩儒  牧園 豬 柳川藩儒      杉本祐憲 通称主税、御室宮家士  川北重憙 号温山、島原藩儒  大友 参 号遠霞、筑前人  吉村 晋 号秋陽、広島藩儒  浅井中倫 通称太一郎、中斎外舅  宇津木泰交 通称下総、彦根藩大夫  備中松山藩 後高梁 の山田方谷 天保四年二十九歳 は当時京都に遊学 して居たが、箚記一本を手に入れ、藩学有終館の学頭奥田楽山 名蕉蔵 に贈りて、左の書状を添へた。  今般洗心洞箚記なるもの差上候、則ち大塩老吏得意之作と相聞申候。  乍去平人には売与不仕、当国にも所司代奉行方へ差出候計、其外は  堂上へ少々差上候のみに御座候。去る手筋より一部手に入申候故、今  般差上候。当時にて先づ珍ら敷書に御座候。此書に付ては色々奇談も  御座候、追々御聞可成と奉存候。御覧被遊候はゞ、大夫方  並に館中諸子へ御覧に御入被成下候様奉希上候云々。( 十月二日)  寛政異学の禁以来、列藩多くは朱子学を厳守せるが、松山藩は必しも 然らず、方谷が平然箚記を館中諸子にまで勧めたるは、此間の消息を知 るに足らんか。



石崎東国
『大塩平八郎伝』
その58























石崎東国
『大塩平八郎伝』
その61
 


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