Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.7.15

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩中斎』

その40

山田 準(1867−1952) 

北海出版社 1937 『日本教育家文庫 第34巻』 ◇

◇禁転載◇

中篇 学説及教法
 第十九章 洗心洞箚記と佐藤一斎(1)
管理人註
   

 箚記の刻成るや、適々頼山陽の長子余一 聿菴 江戸よりの帰途、来り 訪ふた。中斎一本を之に与へ「吾心以為猶山陽」と喜んだ。  次に、当時幕府昌平黌の祭酒林述斎を助けて学政に参し、殊に王陽明 の学を信奉するを以て一世に重名ありたる佐藤一斎に一本を贈つて評を 乞うた。初め中斎は箚記中の七十九條を抄録して之を送つたが、新刻成 るに及び、漢文の書牘一篇を副へて、更に刻本を贈つた。其の書牘は後 ち箚記附録に収められて居るが、頗る堂々たるものだ。初めに家譜を読 んで志を立つるを言ひ、志操の三変の径路を述べて姚江学に落し、良師 友なきを憂へて書を裁し教を乞ふの意を陳べ、悲壮の中に慇懃を極めて 居る。此はまた中斎の自叙伝とも見らるべきものである。全文を左に掲 ぐ。   一、一齋佐藤氏に寄する書  摂州大阪城の市吏致仕せる大塩後素、再拝して白す、一斎佐藤老先生、                        ハザマ  僕未だ眉宇を仰ぎ声咳を聴かずと雖も、吾が郷の間某、曾て先生の愛 日楼集を伝へ、以て僕に投ず。僕之を荘読して、乃ち先生の学、淵水よ りも深く、先生の文、星辰よりも粲にして、素聞に悖らざるを知る。既 に又読祭酒林公の序を読み、因て復た先生の閲歴と先生の不遇とを了せ り。慕うて之を悲しみ、悲しんで之を慕ふ。孰れか僕の志、先生に在る を知らんや、而して足を門下に投じ、牆を負うて教を請はざるは何ぞや。 是れ惟に山河相隔てるのみならず、嘗て吏役に縛られ、簿書に絆せられ、 寸歩尺行も恣に之を致す能はざればなり。故に徒に翹跂するのみ。而し て僕今乃ち辞職して家居す、宜しく東行して凾丈に侍す自在なるべきが 如し。而して其の事を遂ぐる能はざるは又何ぞや。私讎州の内外に充斥 せるを以て、蠖居して乃ち時を俟てり。而して終に其の時無し。則ち聞 く先生既に年六十を踰ゆと、而して僕四十又一なりと雖も、体孱にして 病多し、安んぞ遭遇の期を失ふこと無きを知らんや。然らば則ち憾みこ れに加ふる無し、故に略ぼ僕が志を未だ一面だもせざる先生に告げて、 以て教を乞ふ。夫れ僕は本より遐方の一小吏なり、只令長の指揮に従ひ、 獄訟荊楚の間に抗顔し、以て禄を保し、年を終へ、他に求むる無きも可 なり、而して此に従事せずして、独り自ら志を尚うして、以て道を学び、 世に容れられず、人に愛せられず、豈左計ならずや。吁、僕を知るもの は、其の志を憫み、僕を知らざるものは、左計を以て之を罪するも宜し。 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 而して僕の志三変あり。年十五にして嘗て家譜を読む。祖先は即ち今川 氏の臣にして、其の族なり、今川氏の亡後は、贄を我が神祖に委ね、小 田原の役に、将を馬前に刺し、之を賞するに御弓を以てせられ、又采地 を豆州塚本邑賜はる。大阪冬夏の役に当つては既に耄せり。軍に従ひ、 以て其志を伸ばす能はず、徒に越後柏崎堡を戌るのみ。建の後、終に 尾藩に属し、嫡子其の家を継ぎ、以て今に至れり。季子は乃ち大阪市吏 たり、此れ乃ち、我が祖なり。僕是に於て慨然、深く刀筆に従事し、獄                    ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 卒市吏に伍するを以て耻と為す。而して其の時の志は、則ち功名気節を ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 以て、祖先の志を継がんと欲するものゝ如し、而して居恒鬱々楽しまざ るの情、劉伸晦が未だ志を得ざる時の念と亦奚ぞ異ならんや。而して器 これに比すると謂ふに非ざるなり。父母、七歳の時、倶に沒す。故に早 く祖父の職を承けざるを得ず。日に接するところ、赭衣罪囚に非ずんば 必ず府吏胥徒のみ。故に耳目の聞見するもの、栄利銭穀の談と号泣愁寃 の事とにあらざるはなし。文法惟だ是れ熟し、條例惟だ是れ諳んじ、向 者の志立たんと欲して、立つこと能はず、依違因循して、年二十を踰ゆ。 吏人未だ嘗て学問する者有らず、故に過失有りと雖も、益友の之を誡む るものなし。其の勢欺罔非僻驕謾放肆の病を発せざるを得ず。而かも是 非の心無きは人に非ず、窃に自ら心に問へば、則ち坐作語默罪を理に得 る者蓋し夥し、要は笞杖の下に在る赭衣と一間のみ。而かも羞悪の心無 きは、亦人に非ず、彼の罪を治むるや、則ち己が病治めざるべからず。 病を治むるには奈何せん、当に儒に従ひて書を読み、理を窮め、而して                       ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 後に癒やすべし、故に儒に就いて学を問へり、是に於て夫の功名気節の ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 志、乃ち自ら一変せり。而かも其の時の志は、猶ほ襲取外求の功を以て、 病去りて、心正しからんを望む者にして、軽俊の患を免る能はず、乃ち 崔子鐘少年の態と適々相同じ、材これに及ぶと謂ふには非ざるなり。而 かも夫の儒の授くる所は、訓詁に非ざれば、必ず詩章なり。僕暇を偸ん で之に慣習す、故に其の其臼に陥るを覚えず、自ら之と化す。是を以 て聞見辞弁、非を掩ひ、言を飾るの具、既に心口に在り、侈然として忌 憚なし、病却つて前日よりも深きに似たり。顧みて其の志と逕庭し、能 く悔ゆること無けんや。此に於て退いて独り学び、困苦辛酸、殆ど名状 すべからず。天祐に因り、舶来せる寧陵の呻吟語を購ふを得たり、此亦 呂子が病中の言なり。熟読玩味して、道こゝに在らざるかと、恍然とし て覚る有るが如し、所謂長鍼もて遠痞を去るに庶からんか、未だ全く正 心の人たる能はずと雖も、然れども自ら赭衣一間の罪より脱したるを幸 とせり。是より又た寧陵の淵源する所を究め、乃ち其の姚江より来れる を知れり。我邦の藤樹、蕃山の二子、及び三輪氏の後、関以西、良知の 学は既に絶えたり、故に一人も之を講ずる者なし。僕窃かに復た三輪氏 翻刻する所の古本大学及伝習録坊本を蕪廃中に出だし、更に稍功を心性                     ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ に用ふることを知り、且つ諸を人に喩す。是に於て夫の襲取外求の志又 ○ ○ ○ ○ 一変せり。而して僕の志、遂に誠意を以て的と為し、良知を致すを以て 工と為すに在り。爾来瞻前顧後せず、直前勇往、只力を現在の吏務に尽 せるのみ。是を以て君恩に報じ、祖先に報じ、而して古聖賢の教に報じ、 敢て人に譲らず。意はざりき虚名州県に満たんとは。因て思ふ未だ実得 あらずして、虚名此の如し、是乃ち造物者の忌むところなり、故に決然 仕を致して帰休す、徒に人禍を恐れて然るに非ざるなり。是の時僕年三        ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 十又八なり、爾来専ら性を小窓の底に養ひ、過を改め、善に遷ることを ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 惟だ是れ務めたり、而して良師友無きの故を以て、其の志を五十六十に 弛めんことを恐る、是れ僕の日夜憂ふる所なり。今より如何か功夫を下 さば、則ち其の志益々竪定し、心太虚に帰せんか。先生亦良知の学を服 膺する者、僕因つて自ら東行して、其の道を以て相見えんことを願はゞ、 則ち夫子の孺悲を待つ者を以て僕を待たざるを知る、故に是の書を裁し て、以て志を告げて教を乞ふこと、便ち此の如し、其の簡率は則ち請ふ 罪する勿れ。且社弟輩、僕の箚記を梓し、以て家塾に蔵す、畢竟其の転 写の労に代ゆるのみ、敢て大方に示さゞるなり。然れども僕の志、亦其         ハザマ の中に在り、幸に間某頃日大府司天台に寓するを以て、斯の人に託し、 以て箚記二冊を左右に呈す、暇日覧観を賜うて、彼此倶に教喩を垂れば、 則ち幸甚々々。祭酒林公も亦僕を愛するの人なり、先生其の邸に寓す、 故と当に聞知せらるべし、冀くば先生覧後、復たこれを林公に転呈せよ、 林公亦一言の教を賜はり、以て共に僕を陶鋳せば、則ち其の僕を愛する の誠、敢て感ぜざらんや、敢て感ぜざらんや。而かも僕知を人に求めん がために云々するに非ざるなり。伏して惟ふ、先生其の文を鑒て、而し て其の志を厚うせられよ。謹んで再拝 原漢文、箚記附録



石崎東国
『大塩平八郎伝』
その56

幸田成友
『大塩平八郎』
174























間某
間五郎兵衛
(重新)


悖(もと)る
道理にそむく






(しょう)
垣根






蠖居
蠖屈(かっくつ)か、
身をかがめ
ちぢめること


(せん)



遐方
(かほう)
遠いところ
















































































逕庭
(けいてい)
かけへだて、
へだたり


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