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三、其人測る可らず
一斎の中斎に復書せる俗牘は、真に委曲を尽して居る。但だ俗牘を以
て答へたのは如何なる理由であらうか、文中には「人事紛忙、且老境精
力薄く相成候間、俗通書不取敢御報申述候」と断つてある。然かし此
は一面の理由で、更に理由があつた、其れは天保八年の事変後、一斎は
深く其の暴乱を悪んで「書大塩後素簡後」と題して左の如き一文を草
し、其人測る可らざる所あるを以て、俗簡を以て答へたといふて居る。
さらば前のは表面の辞令にて、後のは詐らざる告白であらうか。其文左
に、
此巻係浪速人大塩後素所寄真文書。余嘗聞其名。而未識其人。
ノ
往年渠来江都。乞謁故林祭酒述斎先生。爾時余舎在林氏邸内。
ノ ル
渠日過舎前而不入。人或問其意。渠答謂。此行為見林氏。
不為見藤氏。故不入也。其言似有理。而意則可怪也。渠既
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
帰。作此書寄之。義理文詞並有可見。然余答以俗簡。而不
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
以漢字。以其人有所不可測也。云々。嗚呼塩賊、何前日之賢
才如此。而後日之狂暴如此也。乃知人心惟危。道心惟微。可懼之
甚也。 愛日楼全集第三十巻
右は短文ながら、商量すべき幾多の事項を含む。先づ中斎江戸に入つ
て林祭酒を訪うたか否かである。此件は前編にも疑うて置いたが、他に
確証がない限りは、何れとも定められぬ。然かし一斎は其の江戸に来り
しを信じて、門前を過ぎて入らぬ態度に其心術を疑ふたとせば、此も無
理からぬことである。従つて此度の乞教に対し、俗牘の略式を取つたと
いふのが、此の書後文の主旨である。是は其人の信念であるから、他よ
り呶呶する限りで無い。最後に塩賊と云ひ、狂暴と云ふは如何、中斎を
賊とするは、当時殆ど天下の総てであつた、独り一斎に怪しむ必要はな
い。又た人には各々立場と、性格の相異がある、一概に一斎を咎むるの
は允当で無い。
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石崎東国
『大塩平八郎伝』
その57
商量
(しょうりょう)
いろいろ考えて
推しはかること
呶呶
(どど)
くどくど言う
こと
允当
(いんとう)
理にかなうこと
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