Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.7.21

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩中斎』

その43

山田 準(1867−1952) 

北海出版社 1937 『日本教育家文庫 第34巻』 ◇

◇禁転載◇

後編 兇年の惨状と猾吏驕商の膺懲
 第一章 矢部奉行と飢饉救済
管理人註
   

 天保四年、四十一歳は中斎に取つては記念すべき年であつた。四月、 洗心洞箚記を家塾に刻して、之を富士石室及び神宮文庫に納め、佐藤一 斎と往復し、藤樹書院にて経を講ずるなど、幾多其の晩年を飾るものが あつた。而かも是歳よりして、中斎の一身に漸く風雲の機を孕まんとせ るは、天か人か、凡情の測る能はざるものがあつた。                                サダ  中斎は当時東町奉行配下の与力隠居であつたが、七月、矢部駿河守定 カタ 謙が堺奉行より転じて大阪西町奉行となつた。定謙は中斎と同じく其先 は今川氏の一族にて、清廉謹厚の評判があり、堺町奉行としては佳績が 多かつた。従つて予ねてから中斎の人物を知つて居たので、其の大阪に 転ずるや、先づ其子を洗心洞に入れて教育を託し、又た西町と東町と管 轄は異つて居るも、特に中斎を延て顧問とし、賓師の如く待遇した。然 るに早くも八月朔日には暴風雨が起り、数日止まず、関東は殊に甚しく、 穀価日に騰貴した。天満水滸伝には左の如く言ふて居る。                ことし  抑も今年の飢饉といふは、全く今茲一年の凶作に因て起るにあらず。  文政の末年より引続き違作せし上、今年八月朔日の大風雨にて、関東  殊に不作にて、一升二百五十文の価に至る。斯くの如きの凶年ゆゑ米  価は更なり、諸式の価一度上りて下る時なく、唯々大阪のみ米価一升  につき百五十文より二百文を限りとす、是は矢部駿河守殿政令宜しき  に因るものにて、大阪には来秋までの飯米乏しからざるなり。 斯かる有様なれば、矢部奉行は鋭意之が救済に当つた。其の方策は左の 如く言はれて居る。  一、幕府に建言して江戸廻米を減ずること、  二、西国諸侯を促して大阪廻米を増加すること、  三、堂島米市場の投機を取締つて穀価を平準すること、 そして市中窮民に対しては、  一、官米を低価にて分配したること、  二、市中豪商に諭して二回まで金穀を醵出して窮民を救済せしめたる    こと、  右は中斎の献策に因つたものが多かつたのであらう。矢部奉行、後年           アツパレ 人に語つて「平八郎は天晴の吏といふべし。某奉行在役中、度々燕室へ 招き、密事をも相談し、又過失をも聞き、益を得ること浅少ならず」と いへるに徴するも明かである。


膺懲
(ようちょう)
うちこらすこと









石崎東国
『大塩平八郎伝』
その62

















































醵出
(きょしゅつ)
金品を出し
合うこと





燕室
(えんしつ)
休息する部屋
 


『大塩中斎』目次/その42/その44

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