Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.7.27

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩中斎』

その49

山田 準(1867−1952) 

北海出版社 1937 『日本教育家文庫 第34巻』 ◇

◇禁転載◇

後編 兇年の惨状と猾吏驕商の膺懲
 第七章 矢部名奉行と跡部奉行の剛愎
管理人註
   

 九月、西町奉行矢部駿河守定謙が勘定奉行に任ぜられて江戸に移り、 十一月、堀伊賀守利堅が之に代つた。矢部奉行は在任三年に及び、天保 四五年の餓饉に当り、米価を調節し、窮民を救済し、施設宜しきを得た ので、当時名奉行として歓ばれ、市民の落首に左の如きものがあつた。   やべうれし 駿河の富士の 山よりも          名は高うなる米は安うなる。  矢部奉行は終始中斎を敬重したが、然かるに東町奉行跡部山城守の任 に就くや、矢部奉行に心得となるべき事を問ふた。其時の事を藤田東湖 の東湖見聞偶筆には左の如く記して居る。  矢部かたの如く申送りたる後、言ふやう、与力の隠居に平八郎なるも  のあり、非常の人物なれども、譬へば悍馬の如し、其気を激せぬやう  にすれば御用に足るべき也。若し奉行の威にて之を駕御せんとせば、  危き也と語るに、跡部唯々としてありしが、退て人に語りけるは、駿  州は人物と聞きしに相違せり、大任の心得振りを問ひしに、区々とし  て一人の与力の隠居を御するの、御し得ぬのと心配するは何事ぞやと  嘲りぬ。翌年に至り、平八郎乱を作し、程なく服誅といへども、跡  部奉職無状と、世人指を弾し、駿州の先見を称誉せり。中斎は悍馬か  否か。要するに矢部名奉行の其れに似ず、跡部奉行の剛愎は指弾の的  であつた。蓋し其兄水野越前守忠邦が閣老であつたのを恃む所があつ  たといふ。


剛愎
(ごうふく)
頑固で人に
従わないこと

石崎東国
『大塩平八郎伝』
その86


堀の着任は、
8年2月




跡部は
7年4月の任命
 


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