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九月、西町奉行矢部駿河守定謙が勘定奉行に任ぜられて江戸に移り、
十一月、堀伊賀守利堅が之に代つた。矢部奉行は在任三年に及び、天保
四五年の餓饉に当り、米価を調節し、窮民を救済し、施設宜しきを得た
ので、当時名奉行として歓ばれ、市民の落首に左の如きものがあつた。
やべうれし 駿河の富士の 山よりも
名は高うなる米は安うなる。
矢部奉行は終始中斎を敬重したが、然かるに東町奉行跡部山城守の任
に就くや、矢部奉行に心得となるべき事を問ふた。其時の事を藤田東湖
の東湖見聞偶筆には左の如く記して居る。
矢部かたの如く申送りたる後、言ふやう、与力の隠居に平八郎なるも
のあり、非常の人物なれども、譬へば悍馬の如し、其気を激せぬやう
にすれば御用に足るべき也。若し奉行の威にて之を駕御せんとせば、
危き也と語るに、跡部唯々としてありしが、退て人に語りけるは、駿
州は人物と聞きしに相違せり、大任の心得振りを問ひしに、区々とし
て一人の与力の隠居を御するの、御し得ぬのと心配するは何事ぞやと
嘲りぬ。翌年に至り、平八郎乱を作し、程なく服誅といへども、跡
部奉職無状と、世人指を弾し、駿州の先見を称誉せり。中斎は悍馬か
否か。要するに矢部名奉行の其れに似ず、跡部奉行の剛愎は指弾の的
であつた。蓋し其兄水野越前守忠邦が閣老であつたのを恃む所があつ
たといふ。
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剛愎
(ごうふく)
頑固で人に
従わないこと
石崎東国
『大塩平八郎伝』
その86
堀の着任は、
8年2月
跡部は
7年4月の任命
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