Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.7.26

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩中斎』

その48

山田 準(1867−1952) 

北海出版社 1937 『日本教育家文庫 第34巻』 ◇

◇禁転載◇

後編 兇年の惨状と猾吏驕商の膺懲
 第六章 天明以來の饑饉と米価暴騰
管理人註
   

 天保七年は二月以来霖雨止まず、五六月の候、冷気甚しく、七八月、 暴風雨頻りに至り、五穀熟せず、全国に渉り、天明以来の飢饉と称せら れた。  天満水滸伝に云ふ、  天保丙申 七年 の春より霖雨降続き、三伏の盛夏の時だも麻衣を着す  る日は稀にて、諸国一体に冷気なれば、稲生立たず、麦稗等其他の雑  穀も茂りやらず。穂に出づべき頃、奥羽の間には六月十五日暴風雨あ  り、関東には七月十六日大風雨にて、大木を抜き、人家を倒し、同じ  く八朔の暁頃、再び関東大風雨にて北の方より吹起り、西南東海道筋  に吹き及ぶ。又都近き地方には近州より東へと、同月十二日大風雨起  り、古来未曾有の凶歳にて、損害数へ難し。是が為め諸国の交通止ま  り、人歩行せず、田稲悉く流蕩して、終に饑饉の惨状を現出し、米価  踊躍して三百文に及び、餓死するもの道路に充満し、目も当てられぬ  有様なり。  天保饑饉物語に云ふ。  七年の夏は陰陽いよ/\順を失し。 中略 世人愈危ぶみ、如何なる天  災のあらんと案ぜしに、果して天下一般の大飢饉となりて、五穀みの  らず、菜蔬菓物の類まで何一つとして熟せるものなし、此歳も奥羽の  災、殊に甚しく、岩城の辺にては、草木根芽はいふに及ばず、鶏犬猫  牛馬の類まで食尽し、夜にまぎれ出て麦苗の一葉を生ぜしを抜取るも  あり。桃生牡鹿の両郡は餓死せしもの幾千人にも及ぶべく、秋の末ま  では、餓を呼びて泣き叫ぶ声を聞きしが、後には其声も絶たり。路傍  に斃れし餓は犬など噛みちらし、血肉狼藉、実に目も当てられずと、  又た森鴎外の大塩平八郎附録 全集四巻 には左の記事がある。  天保元年、二年は豊作であつた。三年の春は寒気が強く、気候が不順  になつて、江戸で白米が小売百文に付五合になつた。文政頃百文に付  三升であつたのだから非常な騰貴である。四年には出羽の洪水のため  に、江戸で白米が一両につき四斗、百文に付四合とまでなつた。七年  には五月から寒くなつて雨が続き、秋洪水があつて、白米が江戸で百  文に付二合とまでなつた。大阪では江戸程の騰貴を見なかつたらしい  が、一升が二百文近くになつた。  右に因れば、米価が平年よりは五六倍、甚しきは一五六倍に上つて居 る。人心不安に陥り、餓死物多かりしことは想像に余りがある。八月に は甲州都留郡八十余ケ村の百姓蜂起し、一万八九千人、甲府に迫り、窮 民の救済を訴へた。官府許さず、暴民遂に豪家を襲ふなど、人心恟々の 姿を現はした。




石崎東国
『大塩平八郎伝』
その85




『天満水滸伝』
その13














































森鴎外
「大塩平八郎」
その16
 


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