Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.7.30

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩中斎』

その52

山田 準(1867−1952) 

北海出版社 1937 『日本教育家文庫 第34巻』 ◇

◇禁転載◇

後編 兇年の惨状と猾吏驕商の膺懲
 第十章 一天之君御座所と飢民
管理人註
   

 奉行は積出米を制限して在米を維持すると、米価の騰貴を抑へること を以て唯一の策とした。是に於て京都伏見の住民は、其日の飯米に窮し、 密かに五升一斗の米を買はんとて大阪に入るを、奉行は容赦なく捕縛さ せた。因て京都の如き、天保七年八年に於て流離餓死した者五万六千人 に及んだ。春日潜菴は「平安の民庶、三十万に至る盛と謂ふべし。天保 七年八年の際、五穀熟せず、斛価三百余緡 三百文 、流離餓死する者五 万六千人に及ぶ、甚しい哉、富盛の恃む可らざるや」と記して居る。 「平戸藩士聞書」は更に記していふ、  大塩平八郎重て申上候は、右之趣(前章の末参照)御聞済無之候へば、               ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○  ○ ○ ○ ○  京都の儀は如何被遊候哉、一天之君御座所に御座候へば、当地より   ○ ○ ○ ○ ○  ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○  ○ ○        なほざり  米穀登せ不申事は、決して相成不申候。此儀は等閑之儀にては無  之、能々御賢慮奉仰候旨、段々相願被申候得共、一向に御取用無  之、却而京都へ米穀登せ候者有之候へば、可曲事旨を触れ流し  有之候より、此地得意の米屋共より、密かに白米を樽詰に致し差送  り申候処、右の者共を召捕へ糺問被及候由、甚以て不可の御取計ひ、   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○  ○ ○  此儀何共平八郎殿了簡ならず被存候。



石崎東国
『大塩平八郎伝』
その90
 


『大塩中斎』目次/その51/その53

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