大阪奉行は在米維持に血眼であつた際、皮肉にも十一月廿九日、幕府
から江戸廻米の命を伝へて来た。跡部奉行は従来積出制限を励行した手
前、表面を糊塗して、在々有合米の儀は、江戸積出の件、別段差支えな
き旨を諭示した。「在々」とは市外を意味するのである。それのみか奉
行は市外に於て却て江戸廻米の助勢をなしたことは、醜体の至りであつ
た。当時十一代将軍家斉退老の期迫り、世子家慶将軍襲職に関する諸般
の式礼を控へ、幕府も米穀を聚めにかゝつたので、跡部奉行は二重政策
を案出して幕府に迎合した。左れば中斎が「天子御座所の京師へは米を
限りて、其余は一粒の余分を送らず、却て江戸表へは分外に廻米する、
是れ如何なる私ぞや」と憤慨した所以であつた。
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