|
十二月に入つて、米価愈々騰貴し、大阪にて小売白米が一升二百文に
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
上つた。元来二百文と云へば、当時寛永通宝二百個に当る、先づ今日の
弐拾銭に相当するも、古今の金位に相違があるから、一概には言ひ難い。
又た白麦百五十二文、大豆百二十四文、油一升五百八十文、酒一升二百
八十文となり、市民餓死する者続出した。是に於て中斎は養子格之助を
以て跡部奉行に上言せしめ、早く官廩を開いて民の餓死を救はんことを
請ふた。奉行は諾して実行せぬため、七八日後、再び之を促した。奉行
曰ふ、まだ城代に議する遑なく、尚ほ数日を待てと四五日は待ちて三た
び追請せしめた。奉行曰ふ、「昨日此糊塗を城代に謀りしに、意外の障
りあり、其故は、来春将軍退老し、世子襲職の事あり、近日莫大の廻米
を申し来る筈、且つ来秋の米の出来も恃み難し、妄りに官廩を開かば役
料扶持米にも差支を生ぜん、扶持米の事、断念せよ」と。格之助驚いて
之を中斎に報じた、中斎、長太息して曰ふ「民の父母たるもの、無情此
に至る、万策尽く」と。
|
石崎東国
『大塩平八郎伝』
その97
遑
(いとま)
|