Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.8.2

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩中斎』

その55

山田 準(1867−1952) 

北海出版社 1937 『日本教育家文庫 第34巻』 ◇

◇禁転載◇

後編 兇年の惨状と猾吏驕商の膺懲
 第十三章 富商の勧誘
管理人註
   

 いよ/\天保八年は正月、中斎四五歳となつた。中斎は例に依つて生 徒を満堂に集め、開講した、此日は大学の治国平天下の章を講じたが、 時事に感激する所あり、声色共に獅オく、聴く者一人として仰ぎ視る者 は無かつた。  歳が替つて米穀愈々乏しく、米価愈々騰貴し、之に加へ、正月下旬よ り悪疫流行し、一日死する者七八十人乃至百人に上り、去冬より正月ま で、餓死者四五千人に上つた。中斎は前きに廻米増加の策を献じて用ひ られず、京都上せ米の禁を弛むべく献言して用ひられず、開廩救助を請 うて又用ひられなかつた。万策尽きたが、余す所は富商勧誘の一途であ つた。   一、第一案 貸付金制限  中斎は先づ鴻池、加島、其他富商に謀り、各家が諸藩に対する貸付金 を制限せしむることを謀つた。左すれば諸藩は融通に窮し、自然持囲米 を売り出し、米が潤沢になる可しとの事であつた。富商は斯くすること に依つて旧貸金が回収難に陥る理由を以て謝絶した。   二、第二案 六万金  第二案は、鴻池以下十二富商より六万両を借入れ、之を飢民救済費に 充てやうとした、是も行はれなかつた。   三、第三案 一万金  中斎更に一策を案じ、門人庄司義左衛門を招きて請ふ、我れ家禄を抛 つて金を府中の豪戸に借り、窮民一時の施用に充てんと欲す。其の償還 法は年々俸を割て償却することにせば、人心ある者、之に応ぜざる理な し、足下も亦孔孟の徒なり、願くは志士仁人生を捨て義を取るの道を行 ひ、一員に加はり給はゞ幸なりと。儀左衛門、之を諾し、同志二十余人 を募つた。中斎大に喜び、先づ鴻池善右衛門に説いた。善右衛門は中斎 の誠意に感激し、他と協議することを約した。次日、善右衛門は之を天 王寺屋五兵衛、三井八郎右衛門、内田惣兵衛、米屋平右衛門等二十余人 に謀つて曰ふ、大塩氏は有徳の人なり、自分は五千両を負担すべし、諸 君願くば之を一万両となし、大塩氏に貸さんと、衆、之を賛した。時に 米屋平右衛門、独り思ふ、饑民を賑はすは城代奉行の為すべき所、後日 奉行所の詰問に会はゞ、分疏するに術無けん、吾思ふ、奉行所の認可を 取り、然る後貸附くるに若かずと。衆、其言に従ひ、之を跡部奉行に陳 状した。奉行、令を伝へて曰ふ「平八郎前きに養子格之助をして再三飢 民賑恤を請はしめしも許さず。今恣に市民に説きて其金を借り、施与の 料に充てんとするは、察するに名誉を売らんと欲するなり、悪むべき所 為と謂ふべし。苟も奉行所の指令なきに、金円を平八郎に貸与する者あ らば、後日必ず厳科に処すべきなり」と。善右衛門等、指令を得て惶懼 し、乃ち書を作り連書して、之を平八郎に送り、調金を辞謝した。平八                  ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ 郎書を得て驚き、且つ憤つて曰ふ「吾れ当に一身を犠牲に供して、窮民 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ の為めにする所あるべし」と。



石崎東国
『大塩平八郎伝』
その94










































石崎東国
『大塩平八郎伝』
その97







































惶懼
(こうく)
恐れかしこま
ること
 


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