二月十五日夜、中斎は結盟の同志を洗心洞に会して、期日及一般方略
を定めた。是より先き西町奉行堀伊賀守利堅が入府して任に就いた、例
として新奉行が就任すれば市中を巡見する。其れが十九日と発表され、
其日の申刻 午後四時 両奉行とも大塩邸と南北に道を挟んで居る浅岡助
之丞の邸に休息することに定つた。中斎は此時を以て大事を挙ぐる好機
とし、右の際、一挙に両奉行を撃殺し、其勢に乗じて大阪城に打入るに
在つたやうである。又た此日は恰も仲丁 中の丁の日 にて、洗心洞にて
盛大に春季釈菜 孔子の祭 を行ふ例日に当つて居るので、荘厳に祭典を
卒りて叙々壮挙に取り掛かるといふが、中斎の決意を堅めたる一部であ
つたかも知れぬ。
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此の期日に就ては、洗心洞論伝 洗心洞詩文編者の筆 には、四月十九
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日東照宮祭日を以て発することに定めたが、密訴者があつた為めに、二
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月の十九日に早めたといふて居る。此の論伝は明治中の最も後出の書に
て、其説の拠る所審ならざれば、今取らず。又た方略に就ては「平山助
次郎口書」といふものに曰ふ、
同 二月 十五日夜、渡辺良左衛門罷越、堀伊賀守着阪に付、来る十九
日同人并に山城守 東町跡部奉行 同道にて、与力同心屋敷巡見之節、
飛道具を以て右両人 西奉行 とも討取、城内へ致乱入候積之旨申聞、
其節初て大切之企致候に紛なき次第承知致候云々。
右平山は事前の密訴者である。其口書に、十九日、両奉行を討取り、
城内へ乱入云々とあるは蓋し信ずべきものにて、此がこの一挙の一般方
略であつたやうである。
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